自分らしさ?

ワタクシは「自分らしさ」とか,「自分探し」とゆー単語がキライである.なぜなら,「自分らしさ」を決めるのは他人だと思っているからである.
ヒトはイロイロと矛盾した二面性を持つモノである.たとえばワタクシは論理を駆使してディテールまで考えを巡らしているコトもあれば,ほとんど何も考えずに直感だけで行動に移ってしまうコトもある.ドチラも明らかに自分なのだが,他人にとっては大抵どっちかが「内藤健らしい」で,ドッチかが「内藤健らしくない」んである.んでまー,昨日・一昨日と書いてきたように,ワタクシには色んなパラメータがあるんだけど,そのパラメータも時と場合によって変化するのがフツーである.当然相対するヒトによって表面に出てくるキャラが変わってくる.したがって彼らがよく目にするワタクシの側面には当然偏りが出てくるワケで,彼らの中には彼らそれぞれの「内藤健らしさ」が出来上がる.
例えば知り合いが仕事でタイヘンなときに手伝おうか?と言って,「おいおい,らしくねーな」という返答が返って来たトキは,彼にとって自分は「エゴイスティックで他人に冷たい」と見えていたとゆーことである.コレに対して「バカ,ワタクシにだって情くらいあるワイ」と反発するのではなく,普段の自分を振り返る方が余程トクではなかろーか.
アナタも恐らく周りの他人をイロイロと評価しているだろうし,それらを根拠のナイ判断とは思っていないでしょう.ということは,アナタを評する他人もまた同様に,根拠のナイ判断はしてないツモリのハズである.
誰かが自分を評した時に「そんなカンタンに自分を決め付けないでください」と反発するのはカンタンだが,その評価の裏には「その人に見えている自分」がある,と思って振り返ってミタ方がトクだと思う.ソレは「ワタクシが知らなかったワタクシ」を知るチャンスなんである.
そして,「他人に見えないワタクシの側面」があるならば,同様に「ワタクシには見えていない他人の側面」もまたあって当然である.イロイロと人を評価するのは結構だけれども,「はて,自分はその人を一体ドレくらい知ってるだべか?」という疑いは持ち続けた方がトクなんじゃないだろうか.
と,思うんだけど,ドーカナ?