その8〜努力とあきらめ〜

コレは最初に書いておくべきだったが,ワタクシはそもそも「幸福って何?」という問いは,適切ではないと思っている.ソレは「何かヒトツの条件が満たされればヒトは幸福になれる」という前提がなければ成立しない.「○○さえあれば幸せ♪」なんてのはコドモの考え方だ.お金さえあれば幸せかというとそんなことはない.仕事で成功してるのに不幸なヒトは沢山いる.結婚して子供が生まれれば幸せかというと,それも違う.ぶっちゃけ,「幸福な人生」なんて,ヒジョーに曖昧模糊とした捉えどころのないシロモノなんだヨ,とゆーことは忘れナイ方がヨイ.
正確には「どんなときに幸福を感じるか」と問うべきなのだ.あるいは,自分の「幸福な思い出」をできるだけ思い浮かべてみるべきである.友人と飲んでバカ騒ぎをやってる瞬間などは楽しいダケで幸福だとは思わないだろうが,それらは後に振り返ったときは「幸福な思い出」と呼んでいいものになるだろう.幸福な人生を送るヒトツの方法は,そのような「幸福な記憶」を出来るだけ沢山積み重ねていくコトだと思う.結局のところ,ソレは自分の中のどの欲求をどれくらい満たすか,とゆーことを醒めた視点で考えるコトができれば吉,なんではないだろうか.

ココで久々のラッセル.

中庸を守ることが必要である一つの問題は、努力と諦めとの間のバランスを保つことに関するものである。従来、この二つの教義(努力主義と諦め主義)は、ともに極端な主張者がいた。聖者や神秘主義者たちは諦めの教義を説き、能率第一を信奉する専門家たちは努力主義を説いてきた。・・・。この相対立する二派はいずれも真理の半分しか掴んでいない。私はこの章で両者のバランスをとることが重要であることを示したい。・・・。
 幸福は、ごくまれな場合を別にすれば、・・・、熟したくだものように、何の努力もなしに口の中へ落ちてくるような物ではない。
 大半の男女にとって、幸福は神の贈り物というよりは、目標への努力の成果物(結果)にほかならない。これには内面的努力と外面的努力とが大きな役割を果たす。(内面的な努力には、諦めの努力もその中に含んでいる。)・・・中略・・・。
 ところで、諦めもまた、幸福の達成において役割を持っている。しかもそれは努力の演ずる役割にまさるとも劣らぬ役割である。賢い人間は、防ぐことのできる不幸を前にして座するようなことはしないだろうが、どうしても避けることのできないような不幸のために時間と感情を浪費するようなこともしないだろう。また、避けることができる不幸でも、これを避けるために必要な時間と労力が、より重要な目的の追求の邪魔になるような場合には、これを進んで甘受するだろう。・・・
 必要なのは、人事を尽くして天命を待つ、という態度である。諦めには二つの種類がある。一つは絶望に根ざしたものであり、もう一つはどのようにしてもおさえることのできない、希望に根ざしたものである。

ラッセルが↑で言ってるようなことは実はかなりミクロ経済的なハナシで,ソレは経済学の用語で「限界効用」とか「無差別曲線」とか「限界効用逓減の法則」とか呼ばれるモノである(キョーミあるシトはググってみてネ).経済学は消費するお金と,購入する品物やサービスから得られる「効用」ダケを取り上げて考えるのだが,お金ダケじゃなくて自分の時間とか労力とかもひっくるめて考えてみるとオモチロイ.んで,それらの自分の「資源」を仕事とかオンナとか友達とかお出かけとか買い物とかに,どー振り分けるのがイチバン楽しいカナ〜なんて考えられるシトは,吉なんじゃないカナと思うワタクシ.

明日も幸福考つづけます.よろぽこ♪