自己顕示欲と承認欲求

昨日の,あびる優の続き.cosmoさんがワタクシの期待に応えて下さいました♪id:cosmo_sophy:20050225のコメント欄から.

少年期〜青年期の衆目を引くような思い出を懐古して語る“武勇伝”や“非行経験”というのはそれほど特別なものではなく、相手と馴れ合ってきたり、ふとした会話の弾みで誰もが口を滑らせて過去の悪事をカミングアウトしてしまう事がありますね。
あびる優さんの場合はテレビという公共領域における発言であったこと、芸能人という世間からの注目を浴びる存在であり、一定の影響力のある立場であったことにより世間からの強い非難を浴びたのではないかと思います。

その背景には、犯罪行為を暴露する事によって経済的利益知名度向上という実利を得ているのは不公正であるという倫理判断があるのかもしれません。
犯罪という法規範に対する違背行為を非難する根本には、被害者の立場にたった共感感情や社会秩序維持の視点にたった共同体意識などがありますが、『利益獲得の経路に関しての公正性・平等性』といったものも大きく関係しているでしょうね。
こういった反感や憤慨といったものは、著名人や権力者の犯罪に対して向けられやすいのですが、一般的にこの種類の反感・憤慨を抱きやすい方は日常生活では権威や法秩序に対して従順であって、その分、被抑圧感というか不自由感の感覚が強くストレスが大きいのかもしれません。

私たちは大人になればなるほど“社会規範や現実状況による拘束”と“他者の評価・査定のまなざし”が強く厳しくなってくるので、慣れ親しんだ相手に対して過去の思い出話の中で、社会規範や常識感覚を逸脱した経験を誇張して語ることにはある種のカタルシス効果があります。

例えば、酒席などの砕けた場面で、上司に向けて過去の武勇伝を語るという行為には『今はあなたの元でこうして従順に真面目に仕事をしていますが、私は昔は法律を破ることさえ厭わないような無鉄砲な蛮勇があったのですよ。そのような私を部下にしているのだから、あなたもなかなか凄いものです』といった上司の更なる承認・評価を求める欲求、『甘えと反抗のメタメッセージ』が込められているようにも思えます。
そこで、上司が『何、俺だって、昔は全共闘運動に参加して、腐敗した国家権力を打倒してもっと平等で公正な社会を作る為にゲバ棒をもって暴れていたもんだ。お前達のような無目的な蛮勇ではなく、理念のある暴力だったんだ。今の若者はそもそも……』などと返せば、相互的にかつての自分を承認し合う事ができ、現実の社会規範や人間関係の束縛から一時的に遊離できるということが言えそうです。

過去の誇張や脚色が加えられた武勇伝ややんちゃ話というのは、社会環境や人間関係の無数の束縛を相互に解除し合うというか、規範性からの逸脱に伴う快楽につながるものがある為に何時の時代にも変わらず見られるものなのではないかと思います。
あるいは、余りに硬直的で一面的な社会適応的なペルソナを被っている人が『真面目過ぎて面白みのない人』という対人評価を下されやすいように、私たちは多面性や深層性のない平板で規則的な人格に対して人間的な魅力が欠けるという印象を抱きやすいということから、無意識的な承認欲求が『悪びれた部分』をふと表面化させてしまうのかもしれません。

社会規範や倫理規範からの逸脱は、直接的な金品・快楽の獲得といった利益を求めている場合もあるでしょうが、それをコミュニケーションの場で回顧談として語る時には必然的に『他の人とは違う唯一の存在である“私”をもっと見て欲しい。今、見せている“私”だけが私の全てではないのですよ』というメタ・メッセージが内在しているのではないでしょうか。
学校制度の中における不良・ヤンキーといった人たちの多くも、一般評価の枠組みで“私”という個別性が埋没させられ、機械的な評価や査定によって記号的な存在に変質させられることに必死に抵抗しているように思えます。
大人になるという事の一つに、自己顕示欲や承認欲求をどのような形で表現して充足していくのかという手段についての洗練や成熟ということがあるように思います。

それは、完全な倫理観を身につけ、一切の過ちを犯さない聖人君子になることではなく、甘えと抵抗を環境文脈や対人関係に応じて適切な形で表現できること、公共圏と私的領域の分別をしっかりとつけられることにつながっていくのではないかと考えています。

目からウロコがポトリです.また,cosmoさんはこう言う.

一般市民の生活では想像できない他者のまなざしを浴び続ける事によって、更には選択的注目の認知機能によって自分に好意的で肯定的なまなざしを強く意識して精神的高揚を得ることによって、人は自己陶酔的で多幸感を感じる心理状態へと導かれる可能性が高くなっていきます。
そして、そういった自己暗示性・催眠感受性が強い人ほど芸能人(見られる職業)という職業への適性が高く、種々の生理学的フィードバックを働かせてますます美しく、力強い存在へと自己を導いていくことが出来ます。

しかし、他者に評価され羨望される自己の表象に自己愛的に惑溺し過ぎると、外的な現実状況や社会規範を過小評価して、法や社会の規範に従わなければならないという自覚が弱まることも確かな事ですから、自分が芸能人として楽しいトークをし、素晴らしい歌を歌い、面白い芸を見せる場所が、完全に現実世界から切り離された仮想世界ではないという意識をもって仕事に臨む必要があるのでしょうね。

こういった仕事に臨む際の公的な自意識というのが忘却された刹那に、あびる優さんのように思いもかけない自己破滅的な過去の暴露の衝動が現実の発言になってしまうのかもしれません。
それは、今回の事件に対する一般的な非難の言葉としてあびる優さんに投げ掛けられる人格批判や過去の生活態度の断罪、知性の不足とかいった原因よりも、不特定多数や他の芸能人によって注目され期待される自己を強く意識し過ぎた結果であり、今までの芸能活動で築き上げてきた自己イメージを強化して更なる注目を得ようとした承認欲求に突き動かされたのではないかという気がします。

人気講師の予備校の授業みたいに分かり易い.ありがとうございました.