説教は,するのもされるのも大嫌いだ
他人が自分に理解できない言動を取ったからといって,その人物を馬鹿げていると批判することは無駄である.なぜなら,それまでに既に得た経験から彼(女)にとっては,その状況に置いてそのような行動を取ることが当然となっているからである.同様に,自分にとっては当たり前となっている行動や習慣も,他人の目から見れば馬鹿げていると映る場合もあり得るのだ.それはあなたと彼(女)が積み重ねてきた経験が違うからである.したがって自分の価値判断からは間違っていると思えるような言動を他人がとった場合に,彼(女)を批判して行動を改めさせるような試みも空しいものとなるだろう.あなたが自分の経験から作り上げた世界観が既に確固たるものとなっているのと同様に,彼(女)の世界観も既に確固たるものとなっているためである.
――ジョン=ロック
過去に何度も繰り返し書いてきたことだが,同じ現象を目にしても,それに対する反応や評価がヒトによって異なるのは当然のことである.ある個人に向かって「キミは行動を改めた方がイイ」と言う場合,余程慎重になる必要があると思っている.この世に存在するほとんど全ての人間に自尊心というものが備わっている以上,人格に対する批判が,相手の強い反発を招く,とゆーのは当然すぎるハナシである.それでも誰かに苦言を呈するならば,自分が相手から余程信頼や尊敬をされていて,自分の言葉が相応の重みをもって受け取られる相手に限った方がイイんでないだろーか.
で,身近なデキゴトのハナシに移ろう.Aの性格をキツイ,と批判している人がいるようだ.彼女がJMに対してとっている態度が余りにもヒドイ,というものだ.で,彼らは最近,彼女に向かって説教をしてくれたらしい.「このままだとキミのイメージが下がる一方で,人生損するだけだよ」「JMがかわいそうだ」みたいなことを,「キミのためを思って言ってるんだよ」と断りながら.
このままAのイメージが下がって損をする,というのは本当だろうか.現実はモチロン,否であり,「彼ら」は,自分達の感じ方を単に全体化してしまっている.Aのストレートな性格を寧ろオモチロイと思っている人間は,実は多い.ワタクシ,ちっちゃい人(笑),それにアキラも同じ意見だ,もしAの性格が今後穏やかで丸くなってしまうようなことがあれば,ワレワレの損害はかなり大きい.飲み会等で集まった時の笑いの要素が半減してしまうと言ってヨイ.
では,「JMがかわいそうだ」という見方はどうだろう.「アレは本人だって楽しんでるんだから」という見方もあるんである.ちっちゃい人がその筆頭(笑).そもそもJM本人が「Aさんを何とかして下さい」と言い出さない限り,「JMのため」にAを攻撃する,ということに何らかの正当性があるとは思えない.日本人が集まれば大抵AとJMは隣り合って座っている.JMが本当に嫌がっているならば,そうはならないだろうと思うのだが.結局,AもJMも,コチラの日本人コミュニティにおいては,既に欠かすことのできない個性なのだ.Aが大人しくなってしまったら,JMの役割も失われてしまう.まあそのせいで全く居場所がなくなってしまうってワケでもナイだろうけど.
あと,「キミのためを思って言ってるんだよ」という言葉は,親切なようでいて,実はズルイ.「言いにくいことを親切心でわざわざ言ってやっているんだから,それが分からないヤツは恩知らずのバカで,どうかしている」というメッセージが裏に隠れているからだ.このような態度で発される意見は,もはや意見ではない.自分の価値観を相手のそれより上位に置き,相手の反論を拒否する姿勢の表れでしかない.そこには,相手の意見をもとに自分の意見を修正しようという態度は皆無だ.そして,それが説教なのだ.
自分の考え方に疑いを持てる人は,他人を批判したり説教することなんかデキナイ.モチロン,社会のルールを全く知らない子供に対して説教をするのはハナシが違う.少なくとも今までそうやってジュウブン生きてこれたという自負を持つ個人に向かって,キミの行動は正しくないから改めなさいと言うのは傲慢なんじゃないのかな,ということが言いたいワケね.オチマイ.