こみゅにけーしょん再考

エドくんがid:ain_ed:20050331で,「コミュニケーションにおいては語学力も必要だが,お互いの間に共通の場,知識,あるいはバックグラウンドなんかがないと,コミュニケーションにズレが生じてしまう」と書いていて,あーそーだなと思ったので逆トラックバック.実はコメント欄で答えてくれた言葉の方が分かり易くて,

それぞれにコミュニケーションの様式があって、文化に基づいたルールがあって。それを読み取らない限りは、「こっちが必死になって話してんのに、何でわかんねぇんだよ!」ってなるんだよ


コレはまあよーするに,昨日id:Pupaさんが最後にくれたコメントと同じコトなんだけど,今日モンダイにしたいのはコッチ.

自国では同じ文化、言語を背景とするために「わかったつもり」に成っていたものが、他国に出ることに依ってそういった背景が失われ「わからなく」成ってしまう。理解しようとする姿勢が大切なのは、他国語だからではなく、自国語でそれが最も発揮されなければ成らないはずなのだ


自国では分かった『つもり』.同じ国に生まれ育って同じ言語を使っても,やっぱりお互いのバックグラウンドにはどーしょーもないギャップが存在するコトがある.結局誰が相手であっても,コミュニケーションにおいて重要なのは,「自分には相手のことなんか分からないかも知れない」ということを前提にした態度だろう.そして分からないことは,勝手に判断してはいけない.逆に,「立場が同じだから分かるハズだ」という態度は必ずコミュニケーションにズレを生じさせる.大切なのは「立場こそ共通してるけど,感じ方は違うのかも知れない」という疑いを忘れないことなのだ.

で,今日も引き合いに出してしまってすまん,日曜日のちはるの日記.ココにコメントを残した人たちは,恐らく「自分があんなことを言われたら」という視点で考えてしまっている.だから本人の意図との間にズレができてしまった.ちはるは「自分の文章力不足」なんて言ってるが,ワタクシが昨日の記事を書き上げる前に彼女の日記を読んだid:ain_edくんやid:Marichanの姉御がちゃんと読み取っているのだから,必ずしもちはるの責任とは言えナイ.「自分が言われたら怒るだろうけど.でも彼女の反応は違うのかも」という目で見れば,あの日記の文章が実はヒジョーに潔くて清々しいものなんじゃないかと思えてくるハズだ.彼女は友人のことについては詳しく書いていない.書いていないということは,第三者には分からないと言うことだ.分からないことは,上にも書いたが勝手に判断してはいけない.そもそも彼女の友達について批判したりする権利は,第三者にはナイ.ものっすごくオオゲサに言えば,ソレは彼女の個人としての自由と独立を犯しているとも言えるワケだ.


「思いやり」とか「相手の視点で考える」,というのは「自分がその人と同じ状況になったら」という視点に立つだけでは不十分だ.ソレも有効で役に立つことは大いにあるが,「でもあーゆー感じ方やこーゆー感じ方だってあり得るカモね」とゆー,いろんなパターンや可能性を考えてみなければならないコトもある.沢山の可能性が考えられる,というのは要するに「分からない」のだが,その「分からない」状況から少しでも「分かる」状況に行くには,それ以上考えたって時間の無駄で,相手から直接聞き出すしかない.ソレがコミュニケーションってモンでしょう,と締め括ってみる.

…あ,ソレダケがコミュニケーションじゃあナイですけど.