その39〜救うとか,救われるとか〜

昨日の続き.「相手に巣食いたい」とゆーのは,他人を救うことによって,自分も救われるんだとゆー道徳の授業みたいな論理である.ソレは救うにしろ救われるにしろ,満たされない何かが満たされるってコトだと思うんだが,ではイッタイ,その「ナニカ」ってナンなのか.三日前に触れた友人は,「やっぱり寂しいんです」と言った.だから「何か」=「寂しさ」と言っても,多分マチガイではない.だがしかし,「寂しい」とゆーのはどーゆーことなんだろーか.いちおー断っておくが,世界に自分一人だけが生き残ったとか,タイセツなヒトを失ったとか,そーゆーバヤイの寂しさは除外する.ソレは少しレベルの違うハナシだと思うので.


ワタクシは以前,「寂しさと恋愛」(id:KEN_NAITO:20040903〜id:KEN_NAITO:20040906)とゆー記事を書き,その途中で「そもそも寂しさって何ヨ?」(id:KEN_NAITO:20040904)とゆー記事も挙げた.ココでワタクシは「『ヒトに理解されたい』『ヒトに必要とされたい』の二つの欲求のウチ何れか,或いは両方が満たされていないときヒトは寂しさを感じる」と書いたのだったが,コレじゃダメだと気付いた.ので,今日はコレを訂正する.


人間は「ヒトに理解されたい」のではナイ.モチロン「分かって欲しくない」とゆー意味ではない.いくら他人が自分のコトを分かっていたとしても,ソレが欠点ばかりだったらどんなに的確でも自分は寂しくて堪らないだろう.よーするに「イイトコロを見て欲しい」んである.自分の長所を認めて貰いたいんである.


だから寂しいとゆーのは,「自分には何の取柄もナイ」あるいは「自分は誰にも必要とされていない」と,自分で思っている状態である.そしてソレはヒトコトで言い換えが可能だ.よーするに寂しいとゆーのは,「プライドが飢えている」とゆーことなのだ.


…続く