その43〜罪悪感について〜

“良心”なるものは、世界の異なった国々で異なった行為を命ずるモノである。もっと言っちゃうと、その良心の命ずる行為なるモノは、種族や部族や村の慣習と一致すると言ってイイだろう。それじゃイッタイ、「良心が咎める」と言うトキ、実際には何が起こっているのかな。


…ってワケで、久々に幸福考、コレまた不定期更新で再開である。そして今回はコレマタ久々に、ラッセルの「幸福論」を見ながら進めていくコトにしよー。


ラッセルは、「良心というものは、悪行・悪事が発覚しないかという恐れである」と言う。

彼らは、見つかる恐れがほとんどないと思われる間は、犯した犯罪を忘れていられる。しかし悪事が発覚したとき、または発覚する危険が非常に大きくなったときには、もっと身を慎めばよかったと悔やむ。こうした後悔は、彼らに犯した罪の重大さについて強い感覚を与えるかもしれない。この感情に非常に類似しているのは、集団から仲間はずれにされはしないかという恐れである。トランプでいかさまをしたり、ギャンブルの賭け金を払わなかったりする人はそれが見つかった場合、仲間からの非難に対して抗弁する余地はまったくない。この点で、彼は宗教改革者、無政府主義者、革命家のいずれとも異なる。それらの人々は現時点における自分の運命がどうあろうと、未来は自分と共にあり、現在忌み嫌われていればそれだけ栄誉が与えられるだろうと感じている。したがって彼らは集団からの敵意にもかかわらず自分は罪人であるとは思わない。しかし集団の道徳を全面的に受け入れていたながも、集団の道徳に違反している人は、社会的地位を失ったときには大きな不幸に苦しむことになり、この災難に対する恐れのため、あるいはその災難が起こったときの苦しみのため、容易に自分の行為自体を罪深いものとみなすことがあるだろう。


この洞察はミゴトだよネ。自分の価値を集団の価値観で評価しているヒトにとって、集団の規範に従うコトは尊敬を集めるコトであり、違反すれば信用を失い、ひいては――プライドの拠り所を失う。のに対して、自分の価値基準を集団の外に置いているヒトにとっては、集団の規範などほとんどカンケーなくなってしまうのだ。ココが重要な点なのだね。さて、では次回、モスコシ根源的なモンダイに潜るよー。ざぶーん。


…続く