その44〜罪悪感について〜

もうヒトツ、「人間としての自然な感情」とゆーモノにも、疑問を向けてみるのは悪いコトではナイ。

最も重要な形での“罪の意識”は、根の深いものである。それは、無意識にまで根をおろしていて、他人の非難に対する恐れと同様、意識にのぼってくることはない。意識においてはある種の行為は(道徳上あるいは宗教上の)「罪」というレッテルが貼られているが、なぜそれが罪なのか、ということについては、内省してみても分からない。
そして人はこうした行動をとったとき、なぜか落ち着かない気分になる。彼は、自分が罪だと信じていることはやらないような慎み深い人間でありたいと思っている。彼が道徳的に賛美するのは、心が純粋(だと思われる)な人々だけである。彼は、多少の後悔をもって、自分は聖人にはなれないと認識している。事実、彼の抱いている「聖人」の概念は、恐らく通常の日常生活ではほとんどの人間にとって実行不可能なものである。結局、彼は罪悪感や自責の念とともに一生を送り、「最善」などというものは自分とは無縁であり、自分の最高の瞬間は、涙を流して悔い改めている時である、と感じている。


まあ、ラッセルの育った時代と世界はキリスト教の影響がまだまだ強かったのだからソコは差し引くにしても、ウソを付いた時、浮気をした時、etc...そんなときに後ろめたいカンジがするのは、果たして「自然なコト」なのだろーか。

こうしたことのもともとの原因は、ほとんど全ての場合、彼が6歳以前に母親や乳母から受けたしつけ(倫理的・道徳的な教え)にある。彼はその頃に、「悪口を言うのは邪悪である」「上品な言葉以外の言葉を使うのは余りよくない」「悪い人間だけが酒を飲む」「決して嘘をついてはいけない」といったことを教えられた。そして特に、性器についてはいかなる興味を持つことも忌まわしいことであるとしつけられた。
そして彼にとって母親に愛情をもってかまってもらうこと、あるいは母親が冷淡な場合には乳母にかわいがってもらうことが最大の喜びであり、それは彼が教えられた道徳規範に背かなかった場合にのみ獲得できるものであった。そこで彼は、母親や乳母が非難しそうに思われる行為と漠然と恐ろしいものとを結びつけて考えるようになったのである。年をとるにつれ、自分の道徳規範がどこから来たものか、それに違反した場合の罰は元来どんなものであったか次第に忘れていったが、その道徳規範を捨ててしまうこともなかったし、またそれを犯せば何か恐ろしいことがわが身に降りかかりやすいと考えることもやめなかった。  


そーそー、そーなのだ。幼い頃に親や先生から躾けられた道徳観とゆーのは、本当に根が深いモンなのだ。例えば「ご飯を残しちゃイケナイ」とかネ。ごく自然に考えれば、満腹なのにソレ以上食べるコトは不自然である。料理を作ったヒトのコトとか、食材を育てたヒトのコトとか、あるいは命を犠牲にしてくれたウシとかブタとか鶏さんのコトを考えれば、食べ残すなんてのは失礼だから…とゆー理由は思いっきり「文化的・社会的」なモノで、よーするに「非自然的」なんである。

いやモチロン、幼少期に躾けを行うコト自体が悪いなんて言うツモリはゼロであるが、あらゆる道徳・倫理観は例外なく「非自然的」なんだってコトを頭に叩き込んでおくのは、とってもタイセツなコトなんだヨ、と言いたいんである。

だから、気づかないウチに刷り込まれた倫理観、そしてそれが呼び起こす罪悪感は、決して「人間としてトーゼンのコト」ではナイのだ。
イケナイって思ってるのにやってしまう、そんな自分がキライになる…とゆー不幸の無限ループにハマっているヒト。でもそれは、よく考える訓練をすればストップするコトがデキる。苦悩の殆どは、取り除くコトが可能なのダ。


…次回へ続きます