その48〜罪悪感について〜

・・・罪の観念は結局、自己に無分別に注意を集中することから生まれてくる。この誤った倫理道徳によって引きおこされた「主観的な気分」を経験したことのない人々にとっては、理性は必要ないかもしれない。しかし、かつてこの病気にかかったことのある人々にとっては、その治療のために理性が重要な役割を果たすだろう。多分このような病気に掛かることは、精神的発達において必要な1つの段階であろう。そして理性の助けによってこの病気を乗り越えた人は、この病気に掛からなかった人や、この病気からの治癒を経験しなかった人よりも高いレベルに到達するのだと私は考えている。


そう。今のあなたがラッセルがコレまでに述べてきたような、自己矛盾や罪悪感に捉われた不幸な人間だったとしても、そのような矛盾を感じたコトもナイよーなヒトよりは遥かに精神的に発達してるんだ、くらいのコトは考えても罰は当たらないだろう。ソレは自分の中に存在している欲求に気付くとゆーコトであり、そしていつの間にか植え付けられてしまった集団(多数派とは限らない)や伝統や常識の価値観に気付くコトだからだ。


だが既に何度も繰り返してきたよーに、「価値観に従えば欲求不満、逆らえば罪悪感」で八方塞がりのように感じてしまい、そのまま思考停止に陥るコトは疑いなく不幸な状態である。そーではなく、ソコから自分が感じている矛盾の原因を暴きだせ、そのために理性のチカラを使え、とゆーコトである。
アナタが何かの行動の後に後ろめたさを感じていたとしよう。だがソレが「罪悪感」であるのは、自分の中に「それをしないことが善」、そして「それをすることが悪」という価値基準が既に存在しているからである。しかしソレは全ての人間が生まれながらにして持っているよーなモノではマッタクない。全ての善悪の基準は人間が「勝手に作り出した」モノだ。ソレは「特定の時代」の「特定の集団」の「不特定多数」にとって利益ある基準だったんだろーけど、「今」の「アナタ」にとってソレが従うに値するのかどーか、疑ってみるといい。そして別の時代あるいは別の国で、マッタク逆のコトが正当とされている社会も存在し得る事実も見逃さないよーに注意してみるとイイ。そーやって、自由を手に入れて欲しいと思うんだ、ワタクシは。

・・・自己分裂している人間は、興奮と気晴らしを追い求める。彼は強い情熱を好むが、そこに十分な理由があるわけではなく、しばらくの間その情熱が我を忘れさせ、「骨の折れる思考の必要性」から遠ざけてくれるからである。彼にとってはいかなる情熱も陶酔の形となり、根本的な幸福などは想像できない。したがって彼には、「苦痛からの救い」は全て陶酔の形でしか可能でないように思われる。しかし、これは根の深い病気の徴候なのである。
・・・最大の幸福は、自分の能力を最も完全に所有しているときにやってくる。最も強烈な喜びを経験できるのは、精神が最も活発で、忘れることが最も少ない瞬間である。いかなる種類のものであれ、陶酔を必要とするような幸福は見せかけのものであり、不満足なものである。本当に満足できる幸福は、私たちの様々な能力を最大限に発揮させてくれるものであり、私たちの生きている世界を最大限に理解させてくれるものなのである。


不合理な価値観に縛られず、自分で行動を起こして自分の欲求を満足させるコトができるとゆーこと。ソレ以上の幸福があり得ないとは言わないけれど、少なくとも不幸からは自由になれる。そーゆーことです。そんなもんです。


罪悪感についての幸福考、コレにてオチマイ。