言葉について

ソシュール言語学を読んだ時の印象が未だに抜けない。言葉は集団があるところにしか成立しない。そして言葉が意味するのは差異だけなのだ。
どーゆーことかとゆーと、「黄金」と「黄金でないもの(鉄とか銅とか鉛とか)」との間の「違い」に、集団に属する人間全員が価値があるということを共有して初めて「黄金」とゆーコトバが成立するわけだ。コップがお皿から区別されるのは、その用途が集団の人間全員に共有されておるからだね。コトバとはつまり、価値体系なのである。
で、コトバはそーやって人間の集団が作りあげていったものなのだけど、その集団に新たに加わった人間は、その言語=価値体系に強制的に従属させられる。


とゆーことは、である。


コトバが共有されている集団内では、コトバはコミュニケーションの手段として十分に機能し得る、つまり言語ゲームが成立するわけだが、完全に私的な価値というのは、それを共有する集団がない故に言語化できない。
逆に、集団の価値観とは違う価値観を言語化してコミュニケーションできるとしたら、それは既にそのよーな価値を共有できる集団が存在しているということに他ならない。

つまり。

よほどのことがない限り自分だけにしか価値のないこととゆーのはあり得ない。大抵のことは、誰かとコミュニケートすることができる・・・?


ほんとかな。でも経験上は間違っていない気がする。