無限ループからの脱却。2

昨日の続きね。


昨日の最後で触れた不安はしかし、実際には杞憂であった。そこにはワタクシの飽きっぽい性格、とゆーのが少なからず関わっているのかも知れない。そう、何を隠そうワタクシは、飽きっぽいクセに研究者をやっているフトドキモノなのである。いえーい♪


学部生時代、ワタクシは映画にハマっていた。毎週一度は映画館に通い、かつ週3〜5本はビデオをレンタルして新旧やジャンルを問わずに三昧な日々を送っていた。が、大学院に進学して間もなくの頃、映画を見るのが面倒になった。最初のウチは、映画を見る度に新しい発見があったりして面白くてたまらなかったのだが、本数を重ねれば重ねるほど、新しい発見をもたらしてくれる映画に出会うのが難しくなる。映画一本を見るに掛かる約二時間というコストは変わらないのに、映画一本あたりで得られる満足とゆーのは減っていくんである。結局ワタクシの中でその時間に見合うだけのものが得られないと感ぜられるよーになったとき、ワタクシは自分から映画を見ようと思うことがなくなってしまったのである。


クラシック音楽にハマったときもそうだし、小説も同様だった。活字の面白さに気付いたときは次々と本を手にとっていったが、今は気に入った作家数人を除いては、新たに開拓しようという気にもならない。本を一冊読むのは映画以上にタイヘンだからだ。今では同じ本を読むなら、直接的に新しい視点や洞察を与えてくれる学問書の方が遥かに満足感が大きい。そして・・・


学問の分野には限りがないのである。


だから、満足を求めるためにわざわざ「レベルを上げていく」必要がない。また飽きてきたら、別の分野にスライドすればいいだけのハナシなんである。焦る必要もない。死ぬまでに全ての学問分野を網羅しなければならない理由もないからである。コレは別に学問に限ったハナシではなく、この世界には経験しきれないほど沢山の楽しめるものがあるんである。レベルアップに疲れたら、また新しいものに乗り換えればよい。


ワタクシは映画・音楽・芸術などなど、過去に通過してきたモノゴトについて一般のヒトよりは詳しかったりする。がしかし、本当にそれが好きで究めているよーなヒトに比べれば、恐らくそれらの人々の知識量の1%にも足りないであろう。そーゆー飽きっぽさゆえに、疲れずに楽しむ生き方を発見できたのだと思っている。コレが恋愛だとモンダイなのかも知れないが…今は恋愛もそんなもんだろーと思っている。


それからモウヒトツ、大事なことがある。色んなことを経験していくうちに、「今が全て」とゆー感覚が消えてきたことである。「今感じているシアワセが自分の全てだ」と思ったことは、過去何度もあった。だがそれがやがて終わりを迎え、喪失感を覚え、しかしある程度時が過ぎれば結局平気になる。コレはつまり、あの時「全て」だと思ったことは結局全然そうではなかったという事実以外のナニモノでもない。今の自分にとって決定的と思われるよーなモノも、将来の自分にとっては単なる人生のヒトコマに過ぎなくなってしまうだろう。そう思った瞬間に、捉われが消えてしまうのだ。ワクワク・ドキドキは相変わらずタイセツな人生の一部分であるが、「我を忘れるような興奮」は、結局のところ自分が愚かであることの証明に過ぎないのだ。


最後に蛇足。
「私みたいに飽きっぽい人間には研究なんかできません」
とゆーヒトがいる。ところがしかし、研究者とゆーのは飽きっぽいワタクシにはある意味ウッテツケだと思っている。なぜなら、研究の世界は最前線だから。ココは、いつも、全てが、新しいのだ。