その50 〜幸福な仕事?〜

二日に会った女の子との会話の中に、こんなことがあった。彼女の仕事は商品開発だというから、じゃあ何を作っているのかと聞けば「紅茶」だという。


「へえ、紅茶の味とか分かんの?」
「分かりません(爆)。うわ、シブい!とか言ってます」
「ズコッ。ええんか、そんなんで?」
「いいんです。ウチ、圧倒的にシェア1位だし、みんなのんびりやってますよー。あっはっは。」


で、もう一人の別の女性を思い出した。同じように安定した大企業に就職していながら、しかし彼女はそのマンネリ化した職場の雰囲気を激しく呪っていた。こんな仕事で一生を終えてしまうなんて凄く不幸だ、というような言葉を、彼女は何度も繰り返していたっけ。


似たような職場で働いていながら、二人の「幸福度」の差は歴然である。いったい何が違うのであろうか?


この二人の違いは、次のことに集約できると思う。上の彼女(以下A)は「仕事はツマラナくても人生は楽しめる」ってカンジなのに対して、下の彼女(以下B)は「自分の不幸を仕事のせいにしている」ってトコロだ。Bのタイプには、感受性が鋭くて頭もいいが、自分で何かを決断する勇気には欠けている人間が多い。勇気が持てないのは結局自信がないからであり、自信がないのは自意識が外(他人)に向かわずに閉じてしまっているからだが、こーゆータイプは皮肉や批判によって自己の優越性や正当性を示そうとする。それで自尊心は満足されるが、口先だけで事態が変わるわけではないので、結局一生不幸である。


ワタクシはニーチェは嫌いだが、それでも後世に深刻な影響を与えた哲学者であるだけに、鋭い指摘はは多い。彼の著作「ツァラとストラかく語りき」に、こんなシーンがある。主人公のツァラトストラがある街を訪ねたとき、彼の支持者だという一人の若者が走り出てきて、こんなカンジのことを言う。


ツァラトストラ先生、こんな街に来てもムダであります。この街の者はみな先生がこれまでに批判してこられたような人物ばかりであります。こんなところには先生がわざわざ講義をするような価値もございません」


ツァラトストラはしかし、この若者を一蹴する。


「それほどまでに価値のない街なら、お前はなぜここを立ち去らぬのか?お前は批判するためにこの街に留まっているに過ぎぬ。」


ま、かく言うニーチェ自身も世の中に向かって批判を繰り返すばかりで、自分では何も出来なかったんだけどね(だから好かん)。


「やり甲斐のある仕事」が見つかったとすれば、それは大いに幸福なことだと思う。しかし人間自分の好みや適性はなかなか分かるものではなく、一生の間に経験できる職の種類にも限度がある。だから「天職」に出会えるヒトが幸運なのであって、そのような仕事が見つからない人間が不運なのではない。そして仕事は人生の一部でしかないんだから、仕事がそのまま人生の幸・不幸を決定してしまうわけでもない。Aの彼女が楽しそうに笑うことができるのは、仕事以外のところで楽しんでいるからだ。


結局、心が作り出す不幸のほとんどは、自分で自分を特別扱いすることから生じるんである。