その51〜ヒトリでは?ヒトリでしか?〜

「人間はヒトリでは生きていけない」
「所詮ヒトリで生きていくしかない」


とゆー両極端な意見が力説される世の中だけど,正しいのはドッチ?ま,ワタクシに言わせりゃーどちらも半分正しくて,半分は間違っている.ワタクシなりの解答は,


「人間はヒトリで生きていけるけど,仲間が居たほうが楽しい」


とゆーものである.


確かに人間は「ヒトリでは生きていけない」.毎日食ってるコメだって,自分以外の誰かが田んぼで汗水流して種を捲き,育て,収穫してくれたものだ.しかし,自分が食べるコメを作ってくれるヒトが,その人でなければならない理由はない.代わりは,幾らでも存在するからだ.近しい人間関係でも,構造は同じだ.ヒトはそれぞれの人間関係において,それぞれの役割を担い合っているワケだが,どの役割も,代替可能である.「掛け替えのない存在」を否定はしないが,それにしたって「簡単には代わりが見つからない」以上の意味を持たせるのは困難だと思う.ということは,つまり,ワタクシにとって「絶対必要不可欠な特定の個人」などというものは存在しない.当たり前だが逆もまた同様で,ワタクシがワタクシ以外の誰かにとって必要不可欠な存在となることもあり得ない.ワタクシが死んだら泣いたり悲しんだりしてくれるヒトはいると思う(多分)が,ワタクシなしでは生きていけないなんてゆー人間を想定することはできない.


一方,「ヒトリで生きていくしかない」というのは重すぎである.「果てしない困難にヒトリで立ち向かっている英雄的な自分」に酔っているか,そうでなければ必要のない悲壮感を背負った悲劇の主人公,やはり自分に酔っているだけである.更にこの言葉のウラには,無意識の願望が隠されている.それは「誰かを頼れるならば頼りたい」とゆーことだ.にも関わらず他人の助力を拒否しようとするのは,他でもない.期待を裏切られて傷つくのが怖いだけである.もっとも,そのような「友人による裏切り」は,自分が他人に掛ける期待が法外に大きすぎるせいなのだが.


人間,ある程度以上の年齢に達していれば,大抵のことはヒトリでもナントカなるもんである.ソコがゼロだ.マイナスではない.そして自分が他人のためにしてあげられる以上のことを期待しなければ,他人と助け合うことは容易い.人間は「余剰」を他人に分け与えることに,喜びを感じるように出来ているのだから.そうしているウチに仲間ができ,笑いも生まれる.そーゆーものがない人生よりは,ある人生の方が断然に楽しいし,幸福だ.


「自分は誰も必要としていないし,誰も自分を必要としていない」とゆーのはしかし,さびしすぎるんじゃないのか,というツッコミもあるかも知れない.ので,そのへんは次回,イギリスの経験主義哲学者デビッド=ヒュームを引き合いに出しながら考えてみたい.では.


〜続く〜