その52〜懐疑を癒す薬〜

ヒュームはバークリー,そしてロックに始まるイギリス経験論を,反論が不可能なほどにまで論理的帰結にまで追い込んでしまったヒトである.彼の教説は反駁できない代わりに,魅力にも欠けてしまう.


ヒュームの哲学に本格的に触れてしまうと長くなりすぎてしまうので,軽く纏めるダケにしたいのだが,端的に言うと「人間は『因果関係』を経験することはできない」とゆーものである.

私が林檎を眺める場合,過去の経験は私に,それがローストビーフではなくて林檎のような味がするだろう,という予期を抱かせる.しかしこの予期は,理性的に正当化されているとはいえない.たとえそれが正当化されるにしても,その正当化は次のような原理から出発しなければならない.すなわち,「我々が未だ経験していない諸事例が,既に経験した所持霊に類似している」という原理である.我々は少なくとも,自然の経過が変化することを考えうるゆえに,この原理は論理的に必然ではない.


林檎を食べたことがあるヒトは,それ以降林檎を見ると林檎の味を思い起こせるようになる.しかしそれは過去の出来事からそのように「推論している」に過ぎず,ある林檎を齧ってみたらローストビーフの味がした,ということは論理的にあり得ないハナシではナイわけだ.


ヒトは,Aという出来事の後にBという出来事が起こることを度々経験すると,AがBの原因であると判断するようになる.が,人間が経験できるのはデキゴトAの直後にデキゴトBが起こったという事実だけであり,AとBの間の必然的関係性を知覚することはデキナイのだ.火はモノを温める,水は冷やす,という事実を人間は繰り返し経験するが,だからと言ってモノを冷やす炎や,モノを点火する水,という事態があり得ない理由は存在しないのである.結局のところ彼の議論を推し進めると,


世界は幻想に過ぎない,という言明が誤っていることを証明する方法はない


とゆー結論になってしまうんだな.しかし,彼は言う.

たとえ世界が幻想でしかなかったとしても,悲観することはない.不注意と油断という二つの薬が,我々の懐疑をを治療してくれるであろう.今のところ読者の意見がどうあれ,一時間後には世界が存在することに納得しているだろうと,私は当然のように考えている.


そして彼は哲学的には懐疑主義だったが,日常生活においては上記の言葉どおり,生涯を通じて明朗快活,親しみやすくて誰からも愛される性格であり続けた.


不注意と,油断――


まさに賢者の言葉である.


愛も友情も無意味だ,と蔑むよーに言う人がいる.しかしそれならば恋人がいないことや友達がいないことも,同様に意味がない.裏切られ傷つくをこと避けることにも,意味はない.


・・・なーんて難しく考えずに,楽しいときはそのまま流れに任せておけばよいのである.哲学には,必要なときに必要なだけ役に立ってもらう.凹んだときはスケールのでかい思考が,苦痛を和らげる有効な治療薬となってくれるのだから.


前回の「ワタクシは誰も必要としておらず,誰にも必要とされていないが,そもそも誰かに必要とされているよーな人間は存在しない」的考え方は,孤独を感じた時には大いに癒しを与えてくれる.しかし仲間と楽しんでいるときは,何も考えずに笑っておればよいのである.


次回は,お馴染みのラッセルさんに登場してもらって,前回からのシリーズを締めくくることにしたい.