その53〜必要なことは必要なときに必要なだけ〜

一昨日の記事はコチラに移して,書き直すコトにする.


小学校の道徳の時間なんかじゃ,色んな偉人の逸話を聞かされたモンである.ソレだけじゃなく,親や教師や歴史群像物語から,いつしかヒトは形作ってしまう――「理想の人格」ってヤツを.


だが常人がその理想の人格を実行すると,本人は偽善と欲求不満の塊と化してしまう.仮に理想人格を上手く演じることができ,他人からの賞賛を得られたとしても,その程度のリターンではコストが高くつき過ぎであるとワタクシは考える.実際――ワタクシの友人・知人に限ってのハナシだが――「理想の自分」像を強く抱いている人間は,不幸な人間ばかりである.そして彼らは「ヤリタイホーダイ=シホーダイ」なワタクシを「うらやましい」と言いつつも,心のどこかでガキっぽい軽蔑しているコトをワタクシは自覚している.


ラッセルは,人生を食卓に例えて言う.

食事など退屈以外の何物でもない人びとがいる。彼らは、料理がたとえどんなにすばらしくても、料理など詰まらないと感じる。彼らは、今まですばらしい料理を食べてきた。'空腹'が激しい情熱になるまで何も食べないでいるとはどういうことか知ることなく,食事を「社会の慣習によって定められた習慣的な出来事」にすぎないと見なしている。他のすべてと同様、食事はめんどくさいが、大騒ぎしてもはじまらない。なぜなら、他のすべても、やはりわずらわしいからである。
次に、義務感から食事をする病弱者がいる。彼らは、栄養をとらないといけない、と医者に言われたから食べるだけである。
それから、美食家がいる。彼らは、期待をもって食べはじめるが、ありうべく上手に料理されたものは何ひとつないのに気づく。
また、大食漢がいる。彼らは、非常に貪欲に食物に襲いかかり、そして食べすぎて'多血症'になり、'いびき'をかくようになる。
最後に、健康な食欲をもって食べはじめる人たちがいる。食べ物を喜び、十分に食べれば、それでおしまいにする。
 '人生の饗宴'の前に座る人たちも、人生が提供する良きものに対して同じような態度をとる。幸福な人は、最後の食べ方をする人に相当する。'空腹'の'食べ物'に対する関係は、'熱意'の'人生'に対する関係に似ている。食事に退屈している人は、「世の中には何もない」というバイロン風の不幸の犠牲者に相当する。義務感から食べる病弱者は「禁欲主義者」に、大食漢は、「享楽主義者」に相当する。美食家は、人生の快楽の半分は美的でないとぶつぶつ言う「気むずかし屋」に相当する。奇妙なことに、これらのタイプの人たちは全て−−大食漢は別かも知れないが−−健康な食欲の持ち主を軽蔑し、自分たちのほうが優れた人間だと思っている。お腹がすいたから食事を楽しむとか、おもしろい見ものや驚くべき経験をして人生を楽しむというのは、彼らには低俗であると思われる。彼らは、'幻滅の高み'から、それらの人々を単純な人間だと軽蔑し、見下す。私としては、そういう見方には共感しない。'幻滅'はすべて、私には、一種の病気であると思われる。この病気は、確かに事情によっては避けがたいかもしれないが、それでもなお、この病気にかかったときには、できるだけすぐに治療するべきであり、知恵の高尚な形式だなどとみなすべきでない。


ワタクシとしては,ヒトからどれだけバカにされよーが,些細なコトで喜んだりハシャいだりする,ガキみてーな人間でありたい.逆に,どれほど他人様から崇め奉られよーとも,ソレが許されない人生ならば死んだ方がマシだと考えるモノである.


他人の評価など,本当にどーでもよろしい.サスガに恨みをかって,やりたいコトの邪魔をされたりするとなるとハナシは別だが,実際のところ,ワタクシなどは敢えて誰かがジャマをしたいと思うほど大きな存在ではサラサラないのだ.それは多分,コレを読んでいるアナタも同様にネ.


いちおーコレで終わろうと思ってたんだけど,またラッセルの文章からオモチロいのを見つけたので引用しますよ.それじゃ,また,次回.