弱いヒトが好き.強いヒトはキライなワタクシ.親父とは違う・・・?

ワタクシの友人・知人には精神科医やカウンセラーの世話になっている人や,それに近い状態のヒトが少なくない.本当は世の中には実際のそれくらいの割合で精神状態の不安定なヒトがいるんだけど多くのヒトがソレを知らないだけなのかもしれない.
だがワタクシはそのような悩めるヒトからハナシを聞くのがキライではない.別に思いやりの精神とかそんなんではマッタクなく,ただそういうヒト達が何となく好きなのと,(言い方は悪いかも知れないが)ヒトの心の構造が分かって面白いのだ.自分の中に弱さを抱えていることを自覚しているヒトは,一緒にいて安心する気がする.自分の弱さを知るヒトは,他人に何かを押し付けたりしないからだろう.


逆に,強いヒトには近づきたくない.強いヒトと言うのは精神的にタフなヒトという意味ではなく,「ヒトの弱さを否定するヒト」のコトである.自分の設定する「あるべき姿」からハズれた人間を蔑んで自尊心を満足させている.


ワタクシは自分の弱さを通じて,ヒトの弱さについてずっと考え続けてきたように思う.それは単純に,ヒトの弱い部分を切り捨ててしまったら,人間性の半分が失われてしまうだけだから・・・だと思っていた.


ところが今日,なぜか突然に,親父に昔言われたコトバを思い出した.


「犬でさえ同じ失敗は繰り返さん.オマエは人間やろ,犬以下になるな」


そう,親父はヒトの理性を信じ,一時の感情や誘惑に流される人間はバカ扱いするヒトだった.それはモチロン,彼が幼少の頃に犯した些細な過ちが,その後の彼の人生に重大な重荷を課したコトと無縁でないのは確かだ.


言うまでもないが,ワタクシは13年間も白血病と闘い続けた親父の姿は尊敬している.しかし,ヒトの弱さや愚かさを認めない親父には反発していたのだ.親父に反発している自分というものを,今日,親父が死んでもうすぐ13年になろうかという時に,初めて知ったわけである.「自分が知らない自分」とゆーのは,まだまだ自分の中に埋もれていそうである.それを発見できるかどうかは,逆説的に聞こえるかも知れないが,「他人に向かって開かれているかどうか」であると思う.何度もこの日記に書いてきたことだが,ヒトは他人と比較して初めて自分の姿を知る.白人は,黒人を見て初めて,自分が白人であることを知ったのだから.


そしてまた一つ,ワタクシの中に新しい命題が生まれた.


「ヒトの弱さを否定すること」もまた,「ヒトの弱さ」である.


また少し,自分の中で何かが変わる瞬間,だな.