その54〜人間の精神は,それ自体では無力である〜

先日言ってた,ラッセルの文章.オモチロ.

 昔々あるところに、ブタをこれ以上ないほど美味のソーセージに変えるために精巧に組み立てられた、2台の'ソーセージ製造機'がありました。そのうちの1台は、'ブタヘの熱意'を持ち続け、無数のソーセージを製造しました。もう一台の製造機は、こう言いました。「私にとって、ブタがなんだっていうんだ。私の'仕掛け'のほうが、いかなるブタよりもずっと興味深いし、すばらしい。」 彼はブタの受け入れを拒否し、自分の内部の研究をするための仕事にとりかかりました。自然の食物を失うと、彼の内部は機能しなくなり、研究すればするほど、自分の内部は空虚でおろかであると思われるようになりました。結局その精巧な装置はすべて、止まってしまい、自分はいったい何ができるのかと思い、彼は途方にくれてしまいました。


という逸話を紹介してから,ラッセルは続ける.

 この第2のソーセージ製造機は、'熱意をなくした人間'に、第1の製造機は'熱意を失わなかった人間'に似ている。精神は不思議な機械であり、提供された原料(材料)をまったく驚くべきやり方で組み合わせることができるが、外界からの原料がなければ無力である。また、ソーセージ製造機と違って、精神は自力で原料を確保しなければならない。なぜなら、種々の出来事(諸事象)は、私たちがそれらに対して興味を持たなければ経験となり得ないからである。もしも種々の出来事が私たちの興味をひかなければ、私たちはそれを全然活用しないことになる。それゆえ、自己の内部にのみ注意を向けている人は、注目に値する何物をも発見しない。一方、外界に注意を向けている人は、たまに自分の魂を調べてみるようなとき、心の中にこの上なく多様で興味ぶかい種々の成分の雑多な集合が詳細に分析され、美しい模様に組み替えられているのを発見することができる。


外界からの原料がなければ無力であるって余りにもその通り過ぎて,ワタクシは笑ってしまったヨ.

 いろいろな人の、他の人間に対する態度も、いかに多様(千差万別)であることか。長い列車旅の間に、乗り合わせた旅行者仲間の誰一人もまったく観察できない人もいるだろうし、一方、乗客全員の'品定め’をして、彼らの性格を分析し、鋭く彼らの境遇を推測し、もしかすると、彼らのうちの何人かについては最も秘密の身の上を突きとめさえする人もいるだろう。他人について突きとめる事柄が異なるように、他人に対する感じ方も、人によって異なる。ほとんどすべての人を退屈だと思う人もいるし、何か親しくしたくない明確な理由がなければ、接触する人びとにすぐさま、容易に友好的な感情をいだく人もいる。
・・・旅行の時の出来事についてとりあげてみよう。ある人たちは、多くの国を旅行し、いつも一流ホテルに泊まり、自宅で食べるものとまったく同じものを食べ、自宅で会うのと同じ怠けものの金持ち連中と会い、自宅の食卓で話すのと同じような話題についておしゃべりをする。(旅行から自宅に)戻り、彼らが唯一感じるのは、お金のかかる旅行(移動)の退屈さを(今ようやく)終わらせた、という一種の安堵感のみである。これに対し別な人たちは、どこへ行ってもその土地の特徴的なものを見学し、その土地の典型的な人たちと親しくなり、その土地の歴史的あるいは社会的に興味深いものであれば何でも見学し、その国や地方の食べ物を味わい、風習や言葉を学び、'冬の夜のための楽しい思いを新たにたくさん持って帰国する。


もう何も付け加える必要ないね.恐らく「幸福とは何か」ってゆー問いは殆ど無意味なんだろうな.「どんな人が幸福な人間か」とゆー問いを立てた方が,余程分かりやすいのだよ,きっと.