主体ではなく,単なる媒介として

昨日紹介した「ACIDMAN」,思ったとおり,同期も気に入ったらしい.研究室でCDを4,5周ほどリピート再生していた.ブログにも

友よ,
私もしばらくヘビーローテーションになりそうだよ.
アリガト.


と書いてくれており,ワタクシは素直に喜んでいるのだが,さて,このCDを同期に聞かせるに至った経緯を考えると,ヒジョーに興味深い事実が見えてくるんである.


マズ,同期にススメられて聞いたCDが幾つかあり,ワタクシもそれらをヒジョーに気に入ったのでコピーを焼いてクルマに常備していた.で,先日予備校時代の友人サイトウをクルマに乗せた時に偶然その中のヒトツ(LOVE LOVE LOVEとゆー名のアマチュアヒソカ滋賀県出身)が掛かっていたんだが,ソレを聞いてサイトウは


「おー,コレええなあ」


と言い,


「ケン,こーゆーの好きやったらBand Apartとか,Jack Johnsonとかも好きなんちゃうん?」
「知らんぞ,聞いたことない.貸せ」


とゆーわけで借りてみると,ナカナカよい.同期に聞かせた結果も「ナカナカよい」.


「おー,かなりええやん.他のも貸せ」


とメールを送ると,ヤツも調子に乗ったらしい,とゆーか今まで周囲に音楽トークを出来る相手がいなかったのだろう.もうノリノリで10枚くらいイッペンに貸し付けてくれた.その中のイチヲシとして「コレだけはゼッタイ聞け!」と言われたのがACIDMANだったワケだ.サイトウには礼としてサイトウに「ウルフルズ」を三枚渡すと,


「オマエがまだウルフルズを好きでいてくれてオレはウレシイ!」とか
「やばい,この週末はウルフルズウィークになりそう・・・」などと


それだけで舞い上がっていた.


さて,このよーな経緯において,ワタクシはナニをしたことになるのだろうか?


同期の好きな音楽がワタクシを通してサイトウに届き,今度はサイトウのお気に入りがワタクシを通り抜けて同期に渡った.ワタクシが自分で見つけた音楽などヒトツもない.ただ,二人の間を音楽が行き来する媒介となっただけではないだろうか.そう,ただ開かれていただけだ.


モチロン,別の見方もできる.音楽情報を集めて流しているのはワタクシで,ワタクシのセンサーが良い音楽を感知しないことには始まらない,というような見方だ.こーゆー考え方は,「自分の存在価値」みたいなものを感じることが出来て,安心かもしれない.ちょっと前までのワタクシなら,「オレサマのオカゲだな♪」などとチョーシこいておったに違いない.


だが,媒介者としても自分,という視点を入れた途端に,ワタクシの役割はいくらでも代替可能で,誰でもよいコトがよく見えてくる.ワタクシは主体的に何かをしたとゆーよりも,右から出てきたものを左に回し,左から入ってきたものを右に流した,とゆー方が余程しっくりくる気がする.


そして,二人の間の媒介となってるうちに三人ともが満足したワケだが,もしもワタクシがドコかで閉じた人間だったとしたら――音楽は自分ヒトリで楽しむものだと考えていたり,あるいは同期に特別に気に入られようとして彼女にだけ新しい音楽を教える,とか――ワタクシは何らかのカタチで流れを止めてしまったであろう.


ふむ.


で,たかが音楽CDの貸し借りでそんな大仰なことを考えてるウチに,ふと思ったわけである.


他人に対して開かれている状態を徹底すると,主体としての自己,つまりはエゴが消滅するのではないか?そして,そーすると多くのヒトと何かを共有できる機会が沢山できて,結果的に沢山のヒトが満足を得られることになるのではないか?


だがしかし,そーなると恋愛はどーなるんだろーか?恋人や家族とゆーのは,閉じた人間関係の典型のような気がする.しかし恋愛とゆーのは必然的に閉じたものにならざるを得ないのだろうか.「開かれた恋愛」というのは「丸い三角」同様にそれ自体背理となってしまうような,単なる言葉のアヤでしかないのだろーか.


今夜は一晩中考え込んでしまいそーだ.やれやれ,一週間後の学会発表の準備はどーするんだワタクシ.