その55〜中庸の徳〜

前々回の「幸福考」その53で,ラッセルが人生を食卓に喩えて,その食卓に向かう人々のタイプを大きく5つに分けているハナシを引いたが,その中の「大食漢」については詳しく述べられていなかった.実はラッセルは,そのことについては別の場所で考察していたのである.(大食漢以外の解説についてはid:KEN_NAITO:20060224を参照されたい)

古代人は「中庸の徳」を必要不可欠な美徳のひとつとみなしていた。しかしロマン主義(18 世紀末〜19 世紀前半にかけてヨーロッパ各地でさかんになった文学・芸術・思想上の自由解放を唱える革新的思潮)とフランス革命の影響のもと、この考え方は多くの人々から捨てられ、「激しい情熱」−−それが仮に、バイロンの詩の主人公たちの情熱のように、破壊的かつ反社会的な性質の情熱であったとしても−−が賛美されるようになった。しかしながら、古代人は明らかに正しかった。良い生活においては諸活動の間にバランスがなければならず、そうした諸活動は、どれ1つとして、その他の活動が不可能になるまで押し進められてはならないのである。'大食漢'(暴飲暴食をする人)は、食べる楽しみのためにその他の楽しみをすべて犠牲にしてしまう。その結果,彼は人生の幸福の総量を減らすことになるのである。

・・・マッタクだ.イロイロなことを経験し,多くの欲求を満足させながら,楽しく人生を生きていくのに情熱が必要なのは確かだ.だが激しすぎる情熱に身を任せると,人間は消耗してしまう.消耗とはつまり他の事物に取り組む気力と体力が奪われるということであり,楽しみを得る多くの機会を逸することになるだろう.大食いは健康を損わせ,食事によって満足を得られる時間よりも遥かに多くの不幸な時間をお見舞いしてくれる.またブクブクと太ってしまえば,それだけ恋愛のチャンスも減る.オナカいっぱいに食べるコトさえできれば満足だ,というのが的外れであるのと同様,キミのためなら何でも犠牲にする,なんて恋愛もまたアテがハズれているということになるだろう.

念のために付け加えるが,情熱や欲望が不幸のモトだと言っているワケではない.情熱を持ち,様々な欲求が満たしていくことのできる人間こそ幸福なヒトである.ただ,たったヒトツの情熱に身も心も支配されてしまうような生き方は,不幸だというだけのことなのだ.


さて,しかしまだヒトツ疑問が残る.ジジイらのハナシを聞いて,ワタクシが自分で自分を作り変えてきた,なんてのは大いに疑わしくなってしまったわけだが,それでは,そもそも人間は自分の性格を自分の望む方向に変容させていくことができないのだろうか.明日はその辺について考える.いや,もう考えてはあるから,あとは書くだけなんだけど.