祖母にとっては,ワタクシの言葉はどうであるか.

祖母の葬式の挨拶を何となく考えているとき,自分が参列して下さった人に伝えようとしている言葉は,祖母自身にとっては微妙な気がした.だってそうでしょう?


祖母が生きてきた九十年という長い道のりを,「失い続ける人生」のヒトコトで片付けるような孫は,果たして良い孫なのだろうか.


ワタクシの考えは否定的である.


祖母自身にとっては,恐らく,祖母の苦労を訴えるような挨拶よりも,「おばあちゃんが今まで生きていてくれたのオカゲで僕はこんなにシアワセだったよ,ありがとう」というような挨拶の方が余程ありがたかったろう.


そーゆーコトを正直にこの日記で書こうかどーしよーかと思っていたら,同期が当にその点を突っ込んできたので,やっぱり書こうと思ったのである.


そう,ワタクシの挨拶文は,今この世に残っている者への言葉でしかない.そしてワタクシの言葉を聞いた人たちの中では,祖母は「憐れむべき人生を送った人」となってしまう.祖母はそれを喜ぶだろうか?


だが残された者にとっては,そのように考えない限り,「祖母の死を肯定的に捉える」ということは不可能なのだ.そして言うまでもないことだが,祖母の死を肯定的に捉えたがっているのは,他ならぬワタクシ自身なのである.


・・・友よ,キミは大したヤツだよマッタク.研究者にしとくのは勿体無いよマジで.