その59〜今の自分があるのは過去に苦労をしたオカゲか?〜

疑問符がついているのだから,ワタクシは疑っているのである.ワタクシ自身,苦労を乗り越えて成長できた,と思っていた時期もある.しかしその頃の自分を思うと,余りにも度量の狭い人間であったことが恥ずかしくてたまらない.


「あの頃の苦労があったから,今の自分がある」


と考えるコトは,人間を少なからず排他的思考に追いやってしまう.
「(僕でも耐えられたのだから)それくらいの苦労で負けるヤツは弱い人間,情けない人間だ」
とゆー,一方的なキメツケを平気でやってのける人間になってしまう.


同時に,「僕は苦労を乗り越えるコトが出来る人間だ」という自負が,更なる重荷を背負うコトを余儀なくさせる.そして「この苦労を耐え切れば,自分はまた成長できる」と自分に言い聞かせ,自分が苦労をしているオカゲで他の人の負担が軽くなっている,という自惚れも珍しくない.しかし実際には「お前らが働かないからオレが苦労してるんだ」という空気が周囲にバレバレで,かえって周囲の人間にとってはイイ迷惑であるコトが多いのだ.


まあしかしソコまで行かなくとも,乗り越えてきた苦労の数が人間を大きさを決める,と信じているヒトは多い.若き日の苦労話などは,しばしば感動的な物語として語られるし,実際ワタクシでもそーゆーハナシには感動してしまう.


確かに,過去の経験が,ソレが苦労であろうとなかろーと,今の自分に少なからず影響を与えているコトは間違いない.だが,こと人間としての度量の大きさとゆーのは,過去の苦労で決まるモノではないとワタクシは思っている.その逆だ.「楽しかった経験」こそが,人間を大きくする.


結局のところ,度量が大きいというのは実は許容できる幅が広いとゆーよりは,「他人と関わることが好きだ」ということだ.ソレはつまり,「ヒトと何かを共有することが好きだ」ということなのである.そして他人と何かを共有するコトを好きになるには,「ヒトと何かを共有できて楽しかった」という経験が絶対に欠かせない.


動物に何かを学ばせるときは,失敗したときに罰を与えるよりも成功したときに餌を与えたり,ホメてやる方が効果的らしい.人間だって動物なのだ.「苦悩」によって成長できる部分がゼロだとは言わない.だが,「喜び」によって成長できる部分の方が,遥かに重要なのではないかと思う.「あんな思いは二度とゴメンだ」という動機付けなんかより,「もう一度あの喜びを味わいたい」と思える方が,前向きなのは明らかだ.前向きな人間からは笑顔が消えることはなく,そして毎日笑っている人間は,自然にヒトの好意を受ける.


「最近の若者は苦労を知らない」


とはイツの時代も言われる言葉だが,苦労を知らないことと,人生の幸・不幸の間にはあまりカンケイがないと思う.