ヒトは・・・

仏陀の言葉の中に,「一切皆苦」というのがある.人の生は結局全て苦しみである,というヤツ.

人間には三つの「感受」がある.「楽受(快の感情)」「苦受(不快の感情)」,そして「非苦非楽受(快でも不快でもない感情)」.しかし,ブッダはこの三つが全て,「楽受」も「非苦非楽受」も,コトゴトく「苦」に帰してしまうと言うんである.


ある対象に快の感情を持っているとき,ヒトはその快の感情を持ち続けたいと思う.例えば,自分に愛する者があれば,いつまででも愛していたいと願うもんである.しかし「いつまでも変わらぬ状態」を「無常」なるものに求めても,かなわぬ夢である.結局,ソレは不快の感情へと変移する.

また,ある対象に不快の感情を持っているときは,その不快の感情を消したい思う.例えば自分に愛する者がいなくて不快感を持つ人が,愛する者の出現を願うよーなコトである.しかし,もしも幸運にも愛する者が出現したとしたトコロで,その後の状況は上に同じ.

じゃあ,快の感情も不快の感情も持っていない場合は? 「快の感情も不快の感情も持たない」でいる状態そのものも「無常」なんである.その後は「快」か「不快」かのいずれかに移っていく.なぜなら,ある物事に対する快や不快を初めて知る直前の状態とゆーのは,「快の感情も不快の感情も持たない状態」以外のナニモノでもナイからである.


しかしワタクシは仏陀のこの議論は反駁することが可能だと思う.「苦」の状態も「無常」であるなら,やがては「楽」に転ずる.だから「一切皆苦」という代わりに「一切皆楽」だと言い換えても何の問題もないハズなのだ・・・論理的には.


だけど「人の世は喜びに満ちている」という言明より,「人の世は苦しみに満ちている」という言明の方が余程的を射ている気がするのは,ナゼだ.