そこに意味はあるのか.

傷心の友人と話しているときに,人の生き死にの話になった.そう,ワタクシはナゼか身近に死が起こった経験が多い.友人が言った.


「アンタの周りにそういうことが多いのは,何か意味があってそうなってるんちゃう?」


そのことなら,今まで何度も自問してきた.しかし答えはいつも徹底的な否だ.


聖書とか,西洋の映画や小説にそういう物語が多いのは確かだ.愛するものに死なれた主人公が,悲嘆にくれた後で自らの氏名に目覚める話.自分の為すべきことを自覚した瞬間に,主人公は叫ぶ.


「神は私にこの仕事を与えるために,あの人を天に召されたのだ」と.


そんなのムチャクチャだろう,とワタクシはいつも思う.それは主人公達の自身と誇りに満ちた顔は,ある一つの前提の上に成り立ったものでしかないからだ.それは「自分は選ばれた者なのだ」という思い込みだ.そのようなマインドは結局周囲の人間を「選ばれなかった者たち」として下に見るのと変わらないと思うわけである.


とりあえず「選ぶもの」が存在して,そしてナゼか自分が選ばれたと仮定してみる.すると死んでいった自分の周囲の人々は,自分に何かを自覚させるためのメッセージとして殺されたことになってしまう.そんな不器用な伝え方しか出来ない神様なら,呪いこそすれ祈る価値などない.それに,一人の人間の死によって苦しむ人間は自分一人では済まない.死者に近しい人間全員がショックを受け,悲しみ,寂しさを背負う.身近な人間の「死を乗り越えて」,使命に目覚めて多くの人を救うことが出来たとしても,一つの死が生み出した多くの苦しみを補うに足るとは思えない.要するに余りにも非合理過ぎて,信じる以前に信用することすら出来ないわけだ.


とはいえ,周囲に起こった人の死から,ワタクシが影響を受けなかったということはあり得ないし,そうありたいなどと言うつもりもない.「死」はいつもワタクシの頭を,ワタクシ自身ではコントロール出来ないほどに転回させ,その結果としてワタクシの考えや価値観に重大な転換をもたらしてきた.だが考え抜いた末に得られた結論は,いつも「当たり前のこと」だった.いわば,子供の頃に御伽噺で聞かされたようなものばかりだったのだ.答えはいつも受け入れ難いほど単純だった.そんな簡単すぎることを悟るのに,ワタクシは代償として人の命を支払わなければならなかったのである.その人に死んで貰わなければ,ワタクシはそれらに気付くことが出来なかったのである.


それほどまでに愚かな自分を,ワタクシは絶対に誇ることができない.


しかしだからと言って,ワタクシは残りの一生を愚か者として生きていくつもりもない.過去は変えられないが,今と未来は自分の態度次第で大きく違ってくる.人より賢いかどうかは重要ではない.過去の自分より賢いかどうかが重要なのだ.今の自分が過去の自分より何かを学んでいるのなら,これからの人生を今までの人生よりも良くすることができる.そして今までの自分がそうであったように,今の自分もまた「何か当たり前のこと」に気付いていないはずだが,気付いたときにはまた一つ賢くなれるのだと思っておけばいいだろう.


仏教に「縁起の法則」というものがある.あらゆる事象は様々な要因によって成立しているもので,その要因が一つでも失われるとその存在は消滅するか,あるいは別物になってしまうという大原則だ.それに従えば,無論,周囲に起こってきた死という経験なしには今のワタクシはあり得ない.しかしそれがワタクシの全てなのではない.
使命に目覚める人は「喪失と再生」の経験が全てになっていて,それ以外のものを忘れてしまっている.だが,「それ以外のもの」なくしては,やはり今の自分ではあり得ないのである.それを忘れてしまった自分は,やはり自分ではない.


結局,死という「ある体験」を通してワタクシは何かを学び,以前よりは賢くなることができたが,今なお当たり前のことに気付いていない愚か者である.と言い切ったところで,このエントリーを閉じたい.


あー,長かった.