地球に優しい,という言葉は好きじゃない

森林を伐採して,空気汚して,他の生物の生活圏を破壊して・・・最終的に人類を含む高等生物の全てが死滅したとしても,それが「地球にとって悪いこと」だと決め付けることが出来ない.なぜなら,そのような状態の方が生活しやすい生命もまた存在するからである.空気中の酸素は本来生命にとっては猛毒である.その酸素を利用して,大量のエネルギーを生み出す呼吸機構を獲得した生命もいるが,酸素濃度の低い環境に逃げ込むことを選択した生命だって多量に存在する.いわゆる嫌気性細菌という連中だ.


「人間の勝手な都合で他の生き物を云々・・・」という環境保護団体は多いが,その論理では「それじゃマラリアを媒介する蚊を駆除するのは良くないことじゃないの?」と質問する子供に向かって納得のいく説明をすることはできないだろう.そして大人に誤魔化されて育った子供は,子供を誤魔化す大人になる.


話が逸れた.


ワタクシは他の生命,というよりは生態系を保護することも,マラリアを滅ぼすことも一つの論理で分かりやすく説明できると思っている.それは「そうすることが人類の存続に不可欠だから」.だから生態系を絶滅させないことも,マラリアを媒介する蚊を駆除することも,結局のところ「人間の勝手な都合」なわけだ.人間が生きていくためには,綺麗な水や,美しい山や森が必要だ.でも人間の生命を危ぶませる病原菌やウイルスやそれを媒介する生物は,排除しなければならない.それが喩え自然の摂理に反するようなことであっても.

「生命を捉えなおす」の清水博が,もっと素晴らしい文章を書いているので,長いけど引用しちゃう.

私達はそれぞれ一個の個体としての生命をもっています.この生命は体を作り上げている無数の細胞の生命によって保たれています.それと同時に,この個体としての生命が,逆に全細胞を包み,全細胞にそれぞれ固有の生命と役割とを与えています.各細胞は個体という大きな生命に属し,その秩序の形成に参画しているのです.同様に,大きい自然(たとえば生物圏や宇宙)の構成要素である私達一人ひとりは,その大きな生命に包まれて生存が許されると共に,その大きな秩序を発現する秩序の自己形成の運動に参画しているといえるのです.
このような階層構造を持った自然が動いていく仕組みは大変複雑です.一つの生きている系があるとします.その構成要素と系の間にはフィードバック・ループが回り,動的協力性が誘発されて,秩序が形成されていきます.しかしその系は,更に別の生きている系と動的協力性を持って協同しあいながら,もう一段上の大きい系の秩序を形成するフィードバック・ループをまわしているのです.今度は小さいほうに目を向けると,最初の系の構成要素は,より小さな世界に対しては,生きている一つの系になっていて,それより小さな要素に動的協力性を与え,そのレベルでの秩序を自己形成しています.
自然はこのように大小無数の歯車がかみ合って動いている巨大な機械に喩えられます.ただ本当の歯車ほど噛み合いががきつくなく,動的協力性による弱い相互作用によって動いているだけです.ですから,このような自然の構造の中から,一つの系を取り出してきて,その中における要素と系との関係から一つの生命を考えていくことができるのです.しかし,そのような考え方は近似に違いありません.気体に喩えれば互いの相互作用を無視した理想気体のようなものです.だから,このような理想系が現実に本当に存在していると思い込むと,結論を大きく誤ることがあります.
地球の上に人間と自然とが独立して存在するという考え方は,いわば右のような自然の階層構造の中から,人間とその社会だけを取り出してきて,それが他のものと関係なく動いていると仮定することに相当します.人間と環境の間の最近の諸問題は,人間の社会も,自然環境と共により大きい生きた系を作る一つの要素に過ぎないこと,そしてその大きな系における秩序の消滅は,その系全体の死を意味することを私達に教えてくれています.
要素が他の系と全く独立しているため,その要素からできた理想系を考えることができる場合にはその要素は「裸である」といい,また要素が他の系と相互作用をして絡み合っている場合には「着物を着ている」と呼ぶことにします.この「着物を着た要素」という考え方は,これまでに物理学の「多体問題」の研究で行われ成功してきた繰り込み理論から借りてきたものです.ただ,生きた自然の場合は「多体系」の構造と性質が物理学の対象より遥かに複雑ですが,基本的にはこれと同様な考え方でかなり進んでいけると思います.
さて,この考え方によると,他の系の要素と相互作用をしている特定の要素の集合体があるとき(例えば他の自然の要素と絡み合って存在している人間が沢山いるとき)に,そのような要素が作っている系(人間の社会)の性質を考えてみるという問題は次のように取り扱うことができます.まず,全体の中から問題とする系の要素を取り出して,各要素に他の要素や系の間の絡み合いを適当に繰り込んだ着物を着せておきます.そうすれば,問題とする系の要素だけからできた系を考え,他の系と一応切り離して,その系だけを取り扱うことが近似的に許されるのです.
これまえの伝統的な人間像は,いわば生きている自然という着物を脱がせた「裸の人間」の像であり,そしてこの「裸の人間」の集まりの上に人間の社会と言う系が考えられていました.そして基本的人権ヒューマニズムはこの「裸の人間」の集まりの中で確立されてきたものです.人類の政治・経済・歴史・文化に関するものの見方も,この人間像の上に立って作られてきたものです.ルネサンスの運動は,それまで人々が着ていた中世期的な「神の着物」を脱がせて,「裸の人間」を見出すところにあったわけですから,その延長としての近代文明が「裸の人間」という人間像の上に立てられているのはもっともなことです.しかし,この「裸の人間」とその社会という「理想系」は,「実在系」を表現できません.つまり,他の系や要素との動的協力性による絡み合いを落としてしまったところに問題があるのです.そこで,今後はこの絡み合いを繰り込んだ「生きた自然」という着物を着た人間像の上に立って,個人と社会,個人と自然,社会と自然との関係を明確にしていかなければなりません.
これまで書いたように,人間の社会と生態系とは共同して,より大きい系(生物圏)における生命の秩序を形成しようとしています.そしてその秩序を形成するフィードバック・ループによって互いに繋がった仲間です.ですから,人間が「自然」という着物を着ると同時に,「自然」には人間という着物を着せてやる必要が出てくるでしょう.そして,このような人間の着物を着た「自然」は,「人権」に覆われているわけですから,簡単に破壊してしまうことはできません.
ここで付け加えておきたいことは,秩序の自己形成系の階層構造というものは,これまでの物理学で取り扱われてきた対象とは異なって非常に複雑で,その性質の研究はこれからの問題であるという点です.したがって,どうすれば人間や自然に「着物」を過不足無く着せることが出来るかということについては,まだ処方箋ができていません.この問題は今後,多くの分野で協力して解答を求めていかなければなりません.ただ,人間以外の存在が人間の着物を被ったからといって,犬公方のようなことを考える必要はないのです.人間の着物を着るのは,個々の生物というよりも,その集団(生物圏に大きい秩序を形成する働きをする)であるからです.
人間社会はこの大きい生物圏に生きている自然と共同して秩序を作ることが期待されています.そして一人の人間が,そのような「目的」を持った社会の構成員として行動する限り(自然という着物を意識的に脱ぎ捨てない限り),従来どおりの人権やヒューマニズムを適用されていくことでしょう現在,人々に求められているのは,既に人間は「生きている自然」という着物を着て,より大きい秩序の形成に参加しているという自覚です.


三十年前に,書かれた文章.