研究するとは?

先日,僕の大先輩が研究するということについて,このようなお言葉を述べられた.


「実験をやる前にどんな結果が出てくるか,その可能性をあらかじめ全部考えといて,どの結果が出てきても次に進めるように計画を立てておかんとアカンで.研究をするっていうのはそういうことやで」


もしもこの言葉にうんうんと頷く研究者がいたとしたら,その人は研究者を辞めた方がいいと思う.理由は簡単で,大先輩の言葉が正しければ「研究=自分の予測の範囲に収まるべきもの」ということになってしまうからである.そんなわけないですよ.
研究生活において最も素晴らしい瞬間は,「予測していなかった事態」に遭遇することなのである.それは予測していなかったことなので,当然のことながらその時点では「何故そうなったのか」を説明することができない.そしてその「何故」を実験データと論理によって説明しようとするのが,科学であり研究なのである.


世の中のほとんどの人は,研究を「同じ操作の繰り返し」「こまごまとしたデータの積み重ね」だと思っている.でもそれは,研究のほんの一面でしかない.なぜなら,不思議な現象の「何故」を説明するために最も重要なものは,実は「直観」だからだ.「何故」を説明できる理論やモデルが直観として頭に浮かんでくる.それが,研究の第一歩だ.単純作業の繰り返しは,それからの話である.

実験は,その直観的なモデルを証明もしくは棄却するために行われなければならない.もし自分が考えたモデルが正しければ,こんな実験をすればAのような結果になるはずだし,結果がAでなければ自分のモデルは間違いだ,と言い切れるような実験系を組むことが,研究の第二歩目である.(間違っても「自分の考えの正しさを証明する」ために実験をしてはいけない)


だから研究者としての能力は,「何故」を見つける力,すなわちある種の子供のような純粋さと,「直観力」でほとんど決まってしまう.もちろん専門的な知識の量とか,適切な実験系を組むための論理力,実験の腕前や繰り返しに耐える忍耐力などが必要ないわけではないが,これらはどれも他人に助力を求めることが可能なものだ.


万有引力相対性理論,ビッグバン宇宙やDNA二重螺旋など,科学における偉大な発見は直観から始まっている.想像力に乏しい現実主義者は,実は研究には向いていない.空想に耽って楽しむ夢想家の方が,余程向いているのである.


残念ながら大先輩は,長い研究生活の中で「予想外の結果」に遭遇するチャンスに恵まれなかったようだ.というよりは,見逃しているだけなんだと思いますけど.