経済合理性について

経済学の基本的な考え方の一つに「機会コスト」というものがある。何か物事を行うときにはそれに掛かる実費だけじゃなく「他のことをすれば得られると期待できる収入」まで含めてコストとして認識するのである。


例えば国公立の大学院に通う場合、その学費は年間約百万円。だから修士過程の2年間に要する実質の費用は2百万である。しかし大学院に進学せずに就職した場合、月給20万円前後+ボーナスで、年間3百万ほどの収入が見込める。つまり「2年間就職しない」ことの機会コストは合計6百万。結局、大学院に通うコストは学費の2百万+機会コスト6百万=8百万ということになる。


だから、800万円に相当する以上の知識や技術や経験を身に付けない限り、大学院修士課程に進学することは経済的に非合理的、つまり損をするだけだということになるわけだ。


と、上記のような理論を武器にして、他人のことを「何のために大学院に来ているのか理解できない」とか「世の中は非合理的なアホばっかりだ」みたいな批判を展開する人がいる。無駄とか無意味とかいう言葉を連発して、「こんなんじゃダメだ!」と絶叫する。しかしそのような批判者は、忘れている。


人間は、ほとんどの場合において非合理的な生き物なのだ。


ヒトと動物の違いは何かと問われたとき、「理性」だと答える人は多いかもしれない。しかし大脳新皮質の発達によって、ヒトが獲得したのは理性だけではない。ヒトは情緒の豊かさにおいても、他の動物の追随を許さないのである。


「感動」という言葉がある。ヒトは「感」じて、「動」かされるのだ。対して、「理動」という言葉は存在しない。つまり人を動かそうとするなら、理性に訴えるよりも感情に訴えた方が遥かに有効なわけである。


上記の「経済合理性」の理論を、自らに言い聞かせて努力を積み重ねる人は、成功を収め大物になる可能性を秘めている。大物ということは、そんな人間は世の中に一握りしかいない、ということだ。


繰り返すが、多くの人間は決して合理的ではない。したがって、「理」を掲げて人の行動を改めさせようとしてもほとんど上手くいかないだろう。僕に言わせれば、そのような試み自体が非合理なのである。


・・・ってゆーか、人の心を動かすことのできる人間はもっと一握りしかいない、という事実を無視しないでね。