僕はそもそもペシミストなんだけど.

金曜の日記は,二人の友人を念頭に置いて書いたものだったのだが,それを読んだ後輩が言ってきた.


「私,内藤さんが人に真剣にアドバイスしてるのを初めて見ました.いつも研究室の人たちには『心配せんでええって』とか『大丈夫やって』とかしか言わないじゃないですか.」
「何や,単なる楽観主義者やとでも思ってたのか?」
「いやそんなことは…でもちゃんと理由があって言ってたんだなぁ,と」


そう言われて,笑ってしまった.が,普段の僕の言動からすれば,その後輩が僕に持っていたイメージは無理もないし,そもそも人が僕のことをどう思うかは,その人が決めることなので,言っても仕方のない話だ.が,それでも敢えて自分を語ることにしてみよう.それは僕はこんな人間なんですよ皆さん,なんてアピールするためでは,もちろんない(多分).一つの考え方を,紹介するためだ.


過去の幾つかの日記にも表れているのだが,僕が物事を見る目はかなり悲観的である.自分がどこか新しい場所で新しい何かをしようとしているときとか,僕の頭にまず浮かんでくるのは悪いことばかりである.一旦は不安で一杯になる.


「不安」は,事前に予防策や回避行動を取ったりするためには絶対に必要なことだ.しかし,「考えてもどうしようもないこと」から来る不安(例えば,失敗したらどうしよう,とか,子供が事故に会ったらどうしよう,というような)は,集中力を奪い,余計なエネルギーを消耗させるだけでなく,何も考えていないよりも悪い結末を導いてしまう.


だが,僕は悲観的な性格なので,頭を振ったくらいでは不安は消え去ってくれない.幾ら忘れようと努力したって,無駄である.むしろ忘れようとすればするほど,不安はどんどん大きくなる.ということは,どうやら目を逸らそうとするよりも正面から取り組んだ方が良さそうである.でも,どうすればいいのだろうか.


僕に不安を起こさせている原因を取り除けばいいのだろうか.失恋するのが不安なら最初から付き合わない?失敗するのが不安なら最初から挑戦なんかしなければよい?親が寝たきりになるのが不安なら殺せばいい?結局何もしなければいい?
しかし何もしないことは「このままで将来大丈夫だろうか」という不安を生む.どうやら外的な要因をいくら取り除いていったところで,不安は次から次へと新しく生まれてきて,終わりがない.これでは全然ダメである.


ということは,不安とは結局のところ心の問題だということだ.心の問題なら,上手く考えれば解決できる.そして考えるために必要なもの,それは「言葉」である.金曜に引用したラッセルのような,「長い目で見ろ」とか「幅広く捉えろ」と,自分を諭してくれるような言葉が,僕には必要だったのだ.最初から長い目で見たり広い視野を持ったりすることなど出来ない.「言葉」が,狭搾した視野を広げてくれるのである.


そのようなわけで,僕は生まれつき楽観的な人間には絶対に敵わないと思っている.でも悲観的な分,凹んでいる人の気持ちは理解できるし(多分),それを励ますのに使える言葉も,随分と貯まってしまったというわけだ.