今の自分があるのは,あの時〜〜したからだ,という幻想

友人と話しているときに,その友人が大学の進路で親と対立したときの話を聞いた.結局最終的に彼女は親の意見に従ったらしいのだが,その大学では親友とも言うべき人と出会えたから,親の言うとおりにしといて良かったかなと今では思う,と言った.それに対して,僕はそれは少し違うな,と言った.


僕は現役受験では名古屋大の農学部に合格した.だが父親への拘りから名古屋を蹴って一浪し,京大に入った.そして大学4年になって,実際に京大農学部の研究室に入って研究生活が始まってみると,実は名古屋大の同じ分野の研究室の方が資金も潤沢で,名のあるジャーナルにも多くの論文が出ている事実を知った.何より研究のテーマが,向こうの方が面白そうだった.

ところが一年すると,国の研究機関での共同研究という話が出てきた.そして次にアメリカ.どちらも今の研究室でなかったらありそうもない話だ.そして僕は外に出て実験の腕を磨き,幾らかコネも出来た.

しかし無論,外に出ていたせいで失ったものも少なくない.学生だからこその楽しみというか,研究室の同期の人間達との思い出のようなものが僕には少ない.同期生らの結婚式に行く度に,僕の知らない思い出話に花を咲かされるのは,やはり寂しい.無論,外に出たからこそまた違った出会いがあったのも事実である.


つまり,人生には場面場面で色んな選択肢があるけれど,そのどれを選択しても,それなりにいい事や悪い事があって,だからそれなりの人生を送ることは出来るのである.友人はいい友達に出会えたのは親の言うことを聞いたお陰だと言ったが,実は自分の望んだ大学に行っていたとしても,それなりの出会いはあったであろう.だが友人のような考え方をしてしまうと,親と自分とが対立した際に必ず親の意見に従ってしまうというパターンが出来上がってしまう.それは恐ろしいことなのではないだろうか.


人間は「今の自分」を正当化したいという欲求を持つ.それで,自分が満足できない選択肢を取った際にも,その後に起こった「良い出来事」と結びつけて論理的にはあり得ない因果関係を作り上げてしまう.そしてそれは,自分にとって最善の選択肢を探す,という努力を怠らせる.「あのときの〜〜のお陰で,今の私がある.だからこれからも・・・」と,いうような.


逆に,今の自分の不遇を,過去の選択を誤ったことに帰して嘆き続ける人もいる.それはしかし,その誤った選択をしたからこそ得たものを,全く見ていないことになる.


過去は過去,今は今なのだ.「人間万事塞翁が馬」とは,昔の人はよく言ったものである.