RE:神様なんて信じていない僕らのために

久々にid:ain_edが反応したくなるようなエントリーを書いてくれたので,id:ain_ed:20061117にトラックバック送信である.長文なので一部抜粋して書くけれど.それでもメチャクチャ長いので読むなら覚悟.

いじめは学級制度が存在する限り無くなりはしない。単位制であれば、減りはするだろうが、問題は生徒に対する教員の割合だ。1クラス35とか30人とか、集団心理を利用した様なクラス編成である限り、そこには必ずそれぞれのキャラクター、そして役割が生まれることになる。それらをロールプレイすることによって、日本人的社会性を養うという方向性が消失しない限りは、もしくは、そういう経験が豊かな人間性を育むという限界性がある内は、いじめも教育の内と捉える他ない。

直接は関係ないけれど,研究室には実験のできない学生が攻撃されて登校拒否状態になってしまう事態がよく起こる.そりゃ折角取った研究費を使うんだから,学生が要求されることは当然なんだが,でも学生の出来がよろしくない時に,それを全部学生のせいにされちゃ敵わない.学生の出来が悪いのは,上の指導が悪いからだ,という自己批判能力がゼロなのが悲しい.でも学生は「組織の論理」によって攻撃され,嫌になって来なくなる.それをまた「弱い者」呼ばわりする.
そういう人たちはいつも組織の論理を口にして,その実「組織の論理」という正当性を傘に着て,自己の優越の欲求を満たしているに過ぎないことを自覚できない.そして「組織にとって本当に大切なこと」なんて,誰もちゃんと考えていない.成果を挙げることが最も大切なことだけど,そのためには使える人材の能力を引き出す努力をするしかない.本気で研究に取り組む学生が欲しいのは山々だろうが,大学院生の大部分が就職を先延ばしにしたモラトリアムである以上,最初から「やる気」を期待するなんて無茶な話だ.彼らに働いて「もらう」にはどうすればいいか,そういう発想から始めるしかないのだ.学生が来なくなったら最後,成果など望むべくもない.
何度でも言うが,下の人間が上を愚痴るのは笑い話で済むが,上の人間が下の人間を愚痴ることは許されない.それこそ自分の怠慢・指導力不足を公に曝すだけだと,声を最大にして言いたい.同時に,自分の部下が失敗したときは僕の責任だと,肝に銘じておきたい.僕の責任なのだ.
北風ばかりが吹いている.太陽が足りない.


さて,話は変わって.

 仕事をする。賃金を得る。労働時間=賃金になっていて、労働力=賃金ではなく、そこに居るだけでお金をもらえるのだから正にタイムイズマネー。ビジネスは素直だから良い。学問は一生かかかっても得るものがないかもしれない。一生を捧げても、他人の数日にも満たない様な結果しか出ないかもしれない。もちろん他人など眼中にないし比較対象にならないのだが、第三者からすればそんなものにしかならない。


自分の仕事に客観的な価値などないってね.学問の仕事は換金できないので,その価値を誰にでも分かるように見せることは不可能だ.「換金」という名の「数値化」は,ain_ed本人が言うように数字は物事の一面しか表せないのであって,その本質を表すことはない.だけどそんなものには変えられない「価値」があって,僕らはそれが分かるからそれぞれの道を歩いている.だから一面的な数字じゃなくて,その裏にある別の価値まで含めることこそ「合理的」だと言いたいけれど,それはやっぱり僕らの「理」に「合う」ということでしかなくて,やっぱり研究の外にいる人たちの理には合わない.つまり不合理なのだ(トラバ先のラストのバクり).

「役に立つのか」という質問は「役に立たなければ意味が無い」という価値観が根底にあるからなのだろう。ではこの世の中で「役に立つ」だけに生まれたものがあるのだろうか。誰にも迷惑をかけず、誰も傷つけず、誰も犠牲にしない。ましてや「誰」の「役に立つ」のか、「何」の「役に立つ」のか、「役」に「立つ」とはどこまでの範囲なのか。それすらもわからない人間が「役に立つ」と言える自信はどこから来るのかすらわからない。何よりも自分が何かの「役に立っている」という欺瞞が恐怖だ。


こういう感覚を持っているain_edと出会えたことに感謝したい.ブログ万歳.(僕の誕生日に入籍しやがったことだけは一生許さないけれど)
「そんなことが何の役に立つのか」と言う人は,無意識のうちに「自分の仕事は役に立っている」と思い込んでしまっている.そんな自惚れだけは生涯御免蒙りたい.
「何で人は誰かの役に立たなければいけないのか」という問いを立てて少し考えれば,それは共同体が成立した歴史と経緯に行き着く.答えは簡単なことで,水や食料が十分に無かった時代には助け合わなければ生きていけなかったからで,役に立たない人間を抱えれば共同体全体が危機に曝されるからだ.今の世の中はそうではない.役に立たない人間を抱え込むだけの余裕がある社会に生まれたのは素晴らしい幸運で,僕はそこに寄生させてもらうことに決めただけのことだ.生物進化のロマン追っかけてんだよ,と言えば聞こえはいいけれど,ロマンなんて余裕がなければ生まれようもないからね.

 一つの価値観に執着し、それを他人に強制し、それすらも自覚しない人間が恐い。「〜でなければいけない」ものが人間社会にある様には思えない。もっと単純に言えば共有幻想を押し付ける様な人間には成りたく無い。もっと具体的に言えば、「普通」「常識」「みんな」「誰でも」という言葉でしかその価値基準を見出せない人間にはなりたくない。かといってそれらを「経験」で換言されても同じことなんだけれど。


そう,「普通」も「常識」も,少し枠を広げただけで簡単に消滅してしまう.「俺にはこんなことがあって,だからこれが正しいことだと学んだんだ」とか言われても,「あ,そう」としか言いようがない.僕は別の経験をして,別のことを学んでしまったのだから.その地平に立って初めて「寛容」というものが生まれるのだが,その意味を知っている人は世の中にどれだけいるのだろうか.(といってもこれは僕が自分の経験で学んだ寛容でしかないというトートロジー).

 こんな風に人間の主観と疑似客観は揺れ動く。そのふれ幅がそれぞれの中庸を決める。極端を知らなければ中心は計れない。中心に立った途端に極端は見えなくなる。シーソーの真ん中に立っていても、シーソーは楽しめない。かといって、片側に座っていても、シーソーは遊べない。そこから移動するか、1人でジャンプをするか。


要は,適当に楽しいことをすればいいのだ.僕の弟が昨日名言を吐いた.

「俺は楽しくない時間なんて一秒たりとも過ごしたくない」

お前には敵わないよ,全く.