その70 僕は自由か.

一昨日,そして3日前に書いた「頭の良し悪し」から派生して,ちょっと自由ってものを考えてみたくなった.最終的に幸福観と繋がるつもりだけど,果たして本当にそうなるかは不安.まずは幾つかのテキストを,これから数回に分けて引用していくことにする.

石は一定の運動量だけそれを動かす原因を外部から受け取ると,それによって,外部からの衝撃が止んだ後も動き続けます.石が運動を続けるこの持続性は一つの強制力です.それが必然だからというのではありません.その持続性が,外的な原因の衝撃によって定められなくてはならないからです.(中略)
ではここで,もしよろしければですが,石が運動を続ける際に,その運動を続けるため,出来る限りの努力を行っているということを石が知っており,また考えてもいると想像してみてください.この石は当然ながら自分の努力のみを意識しているがゆえに,自分を自由だと信じ,また,運動を辛抱強く続けている理由は唯一,自分がそれを望んでいるからだと信じることでしょう.これぞまさに,誰もが誇らしげに有していると称する人間の自由,つまり,人間が自分の欲望を意識しつつも,自分達を決定付けている原因には気付かないという,ただそのことだけで成立している自由なのです.乳幼児が自由に乳を欲しがっているつもりになったり,苛立った少年が気持ちの昂ぶる間は復讐したいと思うのに,怖くなると逃げ出したりするのも,まさにこういうことです.飲んだくれは,しらふなら口をつぐんでいたようなことでも,自由意志によって語っているつもりになります.同じように,錯乱者やおしゃべりな人など,そういった類の多くの輩は,自分の精神による自由な決定によって行動している気になって,衝動に呑み込まれているのだとは考えません.しかも,こうした偏見は先天的にあらゆる人間にあるため,そこから解放されるのは容易ではありません.私たちは経験から,人間にとって情念の板挟みになると,最善を分かっていながら最悪を行ってしまうことも多いということを学んでいます.それでもなお,人間は自分が自由だと信じているのです.それは,人間が一つの対象に対して抱くこだわりがごくわずかでしかなく,別の対象の気を苦を頻繁に呼び出せば,用意にそのこだわりに逆らえるからです.

――バルフ・スピノザ――

・・・そうした奇異な趣味を持ったのが彼らのせいでないのは,知的か愚かか,正常か異形かが決まったのがあなたたちのせいではないのと同じだからだ.私たちにしかじかの気まぐれを起こしやすくしているに違いない諸器官は,母親の胎内で形成される.最初に目にする対象,最初に聞いた言葉が,その後の運命を決めてしまうのだ.趣味が形作られ,習慣が身に付くと,もはやこの世のいかなるものもそれを打ち壊すことはできなくなる.教育もむなしく,それによって変わるものなどもはやありはしない.与えられた教育がいかに優れたものであっても,極悪人となるはずの者は確実にそうなる.それは,たとえ教師がいなかったとしても,善に向かう素質の身体を持った人なら,確実に美徳を手にするのと同じことだ.いずれの者も自分たちの身体組織,自然から受けた刻印に即して行動しているのであり,一方が処罰を受け,他方が報酬を受ける謂れはない.