その71 僕は自由か2

自由になった人間にとって、最も苦しい、しかも絶え間なき問題は、一刻も早く自分の崇むべき者を捜し出すことである。しかし、人間という者は議論の余地なく崇拝に値する者を求めている、万人ことごとく打ちそろって、一時にその前にひざまずき拝し得るような、絶対的に崇むるに足る対象を求めているのだ。これらの哀れな被造物の心労は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるだけではなく、万人が信服してその前にひざまずくことのできるような者を捜し出すことにあるのだ。どうしても、《すべての人といっしょ》でなければ承知しないのだ。

――ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」《大審問官》――

人間は,存命中のいかなる瞬間も自由ではない.その者は,自然からもたらされている自分の身体の構造を思い通りには出来ない.自分の考え方や脳の変化も思い通りにはできない.それらは,自分とは別に,自分の知らないところで,自分に絶えず働きかけてくる様々の要因によるものなのである.その者は,愛らしいとか,望ましいとか自分が感じるものを,愛さないように,或いは望まないようにすることも全く出来ない.事物が自分にどういう影響を及ぼすかはっきりとは分からないとき,熟考しないで済ますことも出来ない.自分にもっとも有益だと思う選択肢を,敢えて選ばないようにすることも出来ない.自分の意思が自分の選択によって決定される瞬間,別の行動を取ることも出来ない.では,人間はいかなる時に,自分の行動を制御できる,或いは自由に行動できるのだろうか?自分が行おうとする行動は常に,そのものが過去そうであった姿,現在そうである姿,その行動を取る瞬間までのその人の行動と一続きである.われわれの現在の全体的なあり方は,あり得る全ての状況で捉えてみれば,われわれがなそうとする行動のあらゆる動機の総体を含んでいる.この原理は実のところ,いかなる人間も認めないわけにはいかない.われわれの人生は必然的な瞬間の連続であり,われわれの行動も,その良し悪し,美徳か悪徳か,自分自身ならびに他者に対して有益か有害かに関わらず,われわれの存命中のあらゆる瞬間と同じ様に必然的な行為の連続だからである.

――ドルバック――