その72 僕は自由か3

いきなりだが,幼児性愛者は自分でそのセクシャリティを選ぶわけではない.もし幼児性愛者になるかどうかを自分で選べたのなら,その人は恐らく社会的に危険の少ない,別の性行動を選んだことだろう.
もしも幼児性愛者が自分の意思でそうあることを選んたのだとしたら,彼らは自由意志によって,そうならないことを選ぶこともできたはずだ.だとすれば,幼児性愛者でない僕が,幼児性愛者になることを選ぶ,なんてことが可能だろうか.
どうやら,幼児性愛者が自ら望んでそのような性行動に走るではないように,僕も自らの性行動を,自分の自由意志によって行うわけでは決してないらしい.

しかし幼児性愛者は,生まれつき幼児性愛者なのだろうか?

正確には,幼児性愛者は幼児性愛者として生まれるわけではない.生まれてから幼児性愛者に「なる」のである.だがしかし,そこに楽観的な意味はほとんどないに等しい.


自分ではどうすることも出来ない位置に置かれ,抵抗する術もなく衝動に突き動かされるしかないような場合,僕の行動は「決定論」的だ.よき夫,よき妻,よき会社員,よき生徒,よき市民etc. などなど,その時代,その社会におけるモラルや禁止事項は,多くの人にとって決定論的に作用する.アイデンティティが形成される上で,社会的なものの重みは大きい.僕らは部分的には環境の産物である,教育の影響,情緒的な心の制約,家族構成や友人関係など,実に多くの要因が,解き明かすのも不可能なほど複雑に結びついた結果なわけだ.要するに僕という人間は多くの決定論的要因から生じていることになる.
決定論的要因でも特に大きいのは遺伝学的・生理学的要因だろう.遺伝で受け継がれる体の特徴や性格は,選ぶことができない.遺伝的なものが要因となる癌に罹ったからといって,遺伝の元になった親を責めても何にもならない.性行動の性向や特定の健康状態も,僕らがそうやって偶然手にした事どもが結びついた結果なのだ.

・・・つづく