その73 僕は自由か4

 僕らは,一つの時代に生まれついた個別の体として,様々な影響によって決定付けられている.もっとも強く作用するのにそれ自体はおぼろけにしか見えないもの,しかしその結果は実にはっきりしているもの,それが心理的な影響だ.無意識は一種の力で,その人に行き方や行動を強要する.無意識は記憶を蓄え,衝動や死への憧憬,生の本能,トラウマ,傷,快楽などで溢れている.意識には上ってこないため,些細な徴候や断片を通じて知られる以外には,その本当の性質は分からない.しかしそれは,常に僕の行動の舵取りをしている.
僕ら一人ひとりがどういう人間なのか,嗜好や嫌悪,快楽や欲望や羨望や野心など一切のものが,僕らの無意識に起因している.だから生まれつきの幼児性愛者などいないし,マゾヒストやサディストも,フェティシズムもない.生まれつきそうなのではなく,後からそうなるのだ.決して自らそうなることを選ぶのではなく,そうなるように決定付けられていく.記憶に刻まれた情報に応じて,無意識は命令を下すのである(暴力を振るったり放置しっぱなしだったりする親,トラウマ的体験,父母の過剰な,あるいは余りに粗末な愛情,家庭内での父や母の存在感の強さ,或いは不在,家族の死別や病気,欲求不満をもたらす言葉に出来ないような体験,愛情や優しさ,親子の接触の存在または欠如,etc...).
 僕らは,今ある僕らの姿となるように決定付けられてきたのだ.大胆か内気か,放蕩者か真面目人間か,プレイボーイか頑ななまでに一途か――
 もしも決定論とは別な選択があり得たとしたら,多くの人は今の自分とは違う自分になりたいとさえ思うだろう.晴れやかで調和的で,喜びや平穏や他人との平和を望むだろう.だが現実はその逆だ.望みさえすれば別の自分になれるのなら,一体どういうわけで,人々はこれほど苦渋に満ちた生活に耐えているというのだろうか.


一般には,個人は最低限の自由を手にする一方で,最大限の制約を課せられる.制約の中には,環境や時代,遺伝子などによって逆らいがたく決定付けられたものもある.それらに対しては,自由などほとんど存在し得ない(自閉症ダウン症,最貧国の子供などが極端な例だ).結局のところ,僕らの基本的な部分(性格や気質の大まかな輪郭や方向性)に関しては,自分よりも強力な力によって選択がなされていてそれに従うしかないらしい.

 しかし,自由を信じるとは,幻想を信じるようなものなのだろうか――?