その75 僕は自由か6

僕らが持っている価値観のほとんどが時代・社会的な要請に基づいている.いわゆる「常識」というやつで,そこから大きく逸脱することは当然,生活を極端に困難にしてしまうことは確かだ.しかし,「常識に従っていない時が片時もない」ような人は不幸である.常識に従っているということが自分の行為を正当化させてしまうため,無意識が抱え込んだ葛藤に気付くことすら出来なくなってしまうからだ.
ある種の価値観や判断基準から逃げられない人は,恐らく,過去の強烈な体験(傷)によってその価値基準が固定化されてしまっている.自らの傷を隠すために,無意識が常識を利用するのだ.


一般に,葛藤は「自己の内的な欲求」と「外面的,社会的な要請」との間で生じると信じられている.だがその「外的要請」は,実は外面の笠を被った「内的欲求」であることが殆どだ.もしも傷が絡んでいなければ,時と場合に応じて自己の欲求に従うか,常識に合わせた行動を取るかは簡単に判断できる筈である.葛藤しているということは,何か意識できない理由が,他にあるということなのだ.そこが,無意識に構築された枠組みを見つけ出す,糸口となる.


繰り返しだが,僕らはそういった沢山の決定要因が複雑に絡み合った結果に過ぎない.その意味で僕らは決して自由ではない.でも,今まで僕を決定付けてきた決定要因の一つを見つけ出し,その枠組みを破壊してしまうことは不可能ではない.「僕ら自由か」という問いに対する答は,残念ながら否である.でも僕らは「自由になる,そして,なり続ける」ことは出来るのだ.