読破

ニーチェに対する見方が完全に変わった.そもそもラッセルによる批判のせいで敬遠してしまってたんだよなあ.「権力への意志」が妹による偽作だったとは.ラッセルが特に嫌ったのは「力の哲学」で,だからラッセルのニーチェ嫌いは多分にニーチェの妹のせいか.

人間精神の三段階の変化,が特に気に入った.長いけど略しつつ引用.

 私は貴方達に精神の三段の変化を語ろう.どのようにして精神が駱駝となるのか,駱駝が獅子となるのか,そして最後に獅子が子供になるのか,を.
 精神にとって多くの重いものがある.畏敬の念を備えた,たくましく辛抱強い精神にとっては,多くの重いものがある.その精神のたくましさが,重いものを,もっと重いものをと求めるのである.
・・・
 こうした全ての極めて重く苦しいものを,忍耐強い精神はその身に引き受ける.荷物を背負って砂漠へと急いでいく駱駝のように,精神は彼の砂漠へと急いでいく.
 しかし,もっとも荒涼たる砂漠の中で第二の変化が起こる.ここで精神は獅子となる.精神は自由を我が物にして,己の求めた砂漠における支配者になろうとする.精神は彼の最後の支配者,彼の神を相手取り,この巨大な竜と勝利を賭けて闘おうとする.
 精神がもはや主なる神と呼ぼうとしないこの巨大な竜とは,何者であろうか?この巨大な竜の名は,「汝なすべし」である.だが,獅子の精神は「我は欲する」という.
 獅子の行く手を遮って,この有鱗類の「汝なすべし」が,金色燦然と横たわっている.鱗の一枚一枚に,「汝なすべし」が金色に輝いている.
・・・
 我が兄弟達よ!何のために精神において獅子が必要なのであろうか?重荷を背負い,甘んじ,畏敬する動物ではどうして十分でないのであろうか?
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 精神はかつて「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛していた.今,精神はこの最も神聖なものも,妄想と恣意の産物に過ぎぬと見ざるを得ない.こうして彼はその愛していたものから自由を奪取するに至る.この奪取にために獅子が必要なのである.
 しかし,我が兄弟達よ,答えてみるがいい.獅子でさえ出来ないことが,どうして子供に出来るのだろうか?どうして奪取する獅子が,さらに子供にならなければならないのであろうか?
 子供は無垢である.忘却である.そしてそれは一つの新しい始まりである.一つの遊戯である.一つの自力で回転する車輪.一つの第一運動.一つの聖なる肯定である.
 そうだ,創造の遊戯のためには,聖なる肯定が必要なのだ.ここに精神は自分の意志を意志する.成果を失っていたものは自分の世界を獲得する.


ビックリしたね.僕の成長の軌跡そのまんま.

現代のフーコードゥルーズに先駆けて「生命・生成の力」に注目したニーチェはしかし,「永劫回帰」という究極のニヒリズムに到達してしまう.結局ニーチェは「知」と「誇り」との間に折り合いを付けることのないままに,1889年発狂する.その後11年間精神病院から出ることはなかった.そして1900年,55年の人生を閉じた.


ニーチェは,知ではなく,誇りを捨てるべきだったのだ.