読破

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

カント 世界の限界を経験することは可能か (シリーズ・哲学のエッセンス)

経験主義の巨人ヒュームは究極的な懐疑論に達し,その明晰な頭脳によって,論理的不整合を排した.その行き着く先は,「人は真理を体験することはできない」という荒涼としたものであった.

ヒトは,Aという出来事の後にBという出来事が起こることを繰り返して経験すると,AがBの原因であると判断するようになる.が,人間が経験できるのは飽くまで出来事Aの直後に出来事Bが起こったという事実だけであり,AとBの間の必然的関係性を知覚することは不可能なのだ.火は物を温め,水は冷やす,という事実を人間は繰り返し経験するが,だからと言って物が温まった原因は炎であるとか,冷えた原因が水である,と言うのは論理的に正しいとは言えない.この世にあり得べきあらゆる炎が例外なく温度を上昇させるかどうかを経験的に知ることが出来ない以上,物を冷やす炎や,物を点火する水,という可能性が排除できないからである.

結局ヒュームの議論を突き詰めれば,「世界は幻想に過ぎない」という言明が偽であることを証明する方法はない,ということになってしまうのである.


これに衝撃を受けたのがカントだった.そこでカントは,ヒュームが懐疑のために理性を用いたのに対し,「人は何を知り得るか」ということを解明するために理性を使った.ヒュームに対するカントの回答(決して解決ではない.カントの反論は,ヒュームの議論によって更に反駁することが可能だからだ)は,なかなかに明快である.
それは「確かに人が経験できるのは物が持つ色や形や匂いや手触り等の表面的なものに過ぎず,物そのものを経験することはできない.しかし,所詮そのような,物に関する表面的な経験を総括したものが我々の世界である以上,経験できない『物そのもの』は,我々の世界に現れることはない」.というわけで,経験できない物事を,巧妙に「世界」から追い出してしまったわけだ.
そのような立場から,彼は人が経験できる限界や境界線について考察したわけである.そういうカントの出発点は,非常に面白い.


しかし「最終的に善というものが必然的に導き出されなければならない」という彼の要請は,彼の哲学を屁理屈で埋めてしまうわけで,後半は酷く退屈してしまった.