型に嵌った気遣いと,個別対応の思いやり

「型に嵌った気遣い」というのは,基本的には共同体における倫理道徳規範に従った行動を取るということだ.一言で言えば,自分だけが得をするような行動は取らないとか,他人に不利益を被らせないとかいったことだろう.自分の欲求は抑え,他人の意思を尊重するというような.
これは他人のことを考えているようでいて,実は何も考えていない.「道徳規範」という名の,その共同体が持っているマニュアルにしたがってさえいれば,自分はその共同体に受け入れられるといことであり,徹底して遂行した場合には尊敬さえ得られる.これは裏を返せば共同体における自分の立場を確保するための行為であり,したがって「気遣い」は利他的どころか利己的な行為だとさえ言えるだろう.また気遣いはマユアル通りの行動であれば事足りてしまうため,他人の気持ちを理解する必要がない.したがって他人の気持ちを理解するのが苦手な人間ほど,他人に対して気を遣う.「倫理道徳規範」という正当性を手に入れることができるからだ.
また,当然といえば当然なのだが,気遣いは関係の遠い人間に対してより強く行われる.誰しも初対面の人間には遠慮するし,何かを頼むときは親しい人間以外には頼みにくい.そしてここに落とし穴があるのだが,他人に気を遣いすぎる人間は,自分に近しい人物のことは邪険に扱ってしまう.これは「自己の境界線」の問題だとも言えるが,「自分の欲求よりも他人の意思を尊重」しようとするあまり,「自分に近い人間を犠牲にして,遠い人間を立てる」,ということが起こるのである.これはよく考えると実に不思議なことで,本当ならば遠い人間と身近な人間とでは身近な人間の方がよほど大切であるはずなのに,行為としては真逆になってしまうのである.人の心を理解しようとしていない人間は,ある程度以上親しくなった人物をいとも簡単に「自己」の範疇に含めてしまい,「道徳規範」の名の下に犠牲を強要してしまうのだ.そうして結局「大切なものを,失って初めて理解する」という事態に陥るわけである.


・・・つづく