読破

ユダヤ人思想家のレヴィナスナチスドイツ軍によるフランス制圧時,彼自身は正規フランス兵だったために捕虜として扱われ,ホロコーストは免れた.しかし彼の家族や親戚は,そのほとんどが収容所へと連行され,虐殺された.・・・そういう前提を抜きにしてはレヴィナスは読めない気がする.彼には自分だけが生き残ってしまったという負い目のようなものがあり,それでも存在が赦されるとすれば,それはどういう理由によってなのか.


彼の答えは,「自分のために生きること」がそのまま「他者のために存在していること」だった.


例えば,自分は何のために働くのか.賃金のためである.何のための賃金なのか.余暇のため,趣味のため,そして食べるため・・・すなわち自分が生きるためである.人は自分のために働き,自分のために生きる.それは利己的な生き方だ.
しかし働くことによって生み出される生産物は,誰のためのものなのか.それは経営者に利益をもたらすものであり,消費者に利便性をもたらすものである.結局他者を意識していようがしてなかろうが,自分のために働くことは,他者のために働いているのと同じことなのだ.


そしてとにかく考え込まされたのが,レヴィナスの「死」に関する考察だ.レヴィナスは,「死ねば終わり」という考え方は間違っているという.どう間違っているのか・・・それは過去ログの「それはボクじゃなかった」を読んで頂ければ分かり易い.今の僕の人生は,祖父や大叔父達の人生と深く関わっている.彼らは全員僕が生まれる前に他界しているのだから,直接的な関わりは全くない.しかし,それでも,彼らの生き方が,人柄が,今の僕の生き方を少なからず決定している.彼らが関わってくることによって初めて,今の僕は今の僕になったのだ.死者となった他者とは,直接触れ合うことはできない.だが,その過ぎ去った他者が自らに関わってくることなしには,僕は僕であることが出来ない.無論それは,死者を意識しない僕は,今の僕とは全く違う僕になっているだろうという意味でしかないが.
そしてそれを逆に捉えるならば,僕の人生は,僕の死によって終わるわけではない.僕は死ぬことによって,未だ存在しない他者,つまりこれから生まれ来る者に関わり続けてしまう.そのことを意識しながら生きるのと,意識せずに生きるのとでは,何かが決定的に違ってしまうのではないだろうか.そういう気がしてくるわけだ.


エマニュエル=レヴィナス.彼の倫理・道徳に関する考察は,僕にとってかつて類を見なかったほどに斬新で,説得力がある.自分の死を越えた生き方なんて,見たことも聞いたこともない.でもそれがどういうことか,僕は身に染みて知っていた.知っていたけど気付かなかった.・・・それはきっと,とてもとても,大切なことなのだ.