読破

デイヴィドソン  ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

「『言語』がこれまで哲学者や言語学者の考えてきたようなものだとするなら,そのような『言語』は存在しない」
という「言語非存在論」を唱えたデヴィッドソン.彼は「言葉の意味」を否定する.その根拠として彼が指摘するのは「言い間違い」である.会話において,ある単語を言おうとして別の単語を話してしまうことはよく起こる.例えばコーヒーを飲んでいるとき,相手が
「テロップ入れる?」
と言ってしまっても,多くの人はそれが「シロップ入れる?」という意味だということをすぐに理解できるだろう.コミュニケーションとは,まず何よりも「相手が何か『真』であることを自分に伝えようとしている」という事態を無条件に前提し,受け入れることから始まる,とデヴィッドソンは言う.言葉の意味が厳密には規定できず,また多くの場合文法からは逸脱した「個人的な表現や言い回し」が存在するにも関わらず,コミュニケーションはある程度成功してしまう.言葉を解して僕達が自分の意図を伝えたり,相手の考えを理解したりできるのは,厳密なルールに従って会話をしているからではなく,相手によって,またその場その時の状況に応じて,僕らが「その場限り」のコミュニケーションの法則を作り上げているからなのだ.つまり,「日本語」や「英語」という共通言語が存在するというよりも,個人個人がそれぞれ自分の言語を持っていて,会話というのはその都度その都度に,お互いの言語を擦り合わせることによって成立すると考えるのだ.


初対面の相手といきなり会話が弾むことは少ないが,相手の言葉遣いに応じて,自分の中に「この人の言葉はこのように解釈するのが正しい」という理論が作られる.もちろんそれは完全ではなく,自分の解釈と相手の意図にズレが生じた場合には直ちに修正される.コミュニケーションとは,それを永遠に繰り返して,漸進的に「相手を真に理解する」という状況へと近づき続けることなのである.相手の言葉を常に脱構築し続けると,まあそういうことだね.


しかし,「大体においてコミュニケーションは成立してしまう」といういかにも「テキトー」な主張が素晴らしい.