ベートーヴェン

先週の土曜は知人のピアニストのソロリサイタルだった.かなり積極的なプログラムだったのだが,その中にベートーヴェンソナタ24番があった.正直に言ってミスタッチが多くて,聞き手としては不安になってしまう演奏だっのだが,意図的にテンポやアクセントをずらすなど興味深い試みに挑戦していて,ミスタッチさえなければ名演になったかも知れないと思った.


そんなわけでかどうなのかは分からないが,一昨日筑波に向けて出発する際,無性にベートーヴェンが聞きたくなったのでポリーニが演奏するベートーヴェンの録音を6枚ほど車に積み込んで片っ端から聞いた.ポリーニは「冷たい」とか「機械的」とか言われてアンチも多いピアニストだけど,僕は好きだ.彼は18の時に史上最年少でショパンコンクールで優勝したが,その後公けの演奏活動は一切行わず,大学で物理を専攻する傍ら,ミケランジュリの下で研鑽を積んだ.10年後に彼が演壇に復帰して発表した録音は人々の度肝を抜いた.

ストラヴィンスキー:〈ペトルーシュカ〉からの3楽章

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ベートーヴェン : 後期ピアノ・ソナタ集

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ショパン:12の練習曲

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これらの曲を,誰がこんなに完璧に弾きこなせるというのか.特にベートーヴェンの後期ソナタは数々の大ピアニストが晩年に録音して,深みのある円熟した演奏を残している.だがそのどれをもってしても若き日のポリーニが残したこの演奏の足元にも及ばないと思う.作曲家自信がこの人に憑依してるとしか思えないのだ.

彼のスタジオ録音は確かにクールだ.収録が終わるとすぐに自分でそれを聞きながら楽譜と比べ,クレシェンどやデクレシェンドなどの作曲家の指示通りに音が鳴っているかどうかを確認するほどの完璧主義らしい.そういうスタイルを批判する人はいるだろうが,余計な装飾を抑えた方がかえって胸に響くというものだ.
しかしライブになると,そんな冷徹さはどこへやら.熱すぎるほど熱演である.フィニッシュに鍵盤をあまりにも強く叩いて,「ゴツッ」という音がホールに鳴り響くほどなのだ.そりゃ拍手も鳴り止まないって.

というわけで,運転しながらベートーヴェンソナタ群を改めて聞いていたわけだが,これが新しい発見の連続だったんである.どれも今まで何十回も繰り返し聞いて,よく知っている演奏だったはずなのに,以前とはぜんぜん違って聞こえたのである.作曲家がこれらの曲に込めた感情の渦がガンガン伝わってくる感じがした.単にかっこいいなぁと思っていただけの曲にも,物凄い深さを感じた.僕は今までベートーヴェンの何を聞いていたんだという気になった.

当たり前だが,録音された演奏が変わったわけではない.僕が変わったのだ.僕の中の何かが変わり,同時に世界の見え方が変わる.経験はそのようにして広がる.

単に行ったことのない場所へ行ったとか,見たことのないものを見ただけでは,経験が広がるとは言わないのだ.