僕の境界線

風呂桶の栓を抜くと,排水口から流れ出る水は渦を巻く.しかし渦というものに実体はあるのだろうか.明らかに目には見える.だが排水口に出来てる渦の,どこまでが渦で,どこからが渦でないのか.仮に「渦」という実体があったとして,ある瞬間の「渦」と,一秒前の「渦」はしかし,同じ物体ではない.一秒前の「渦」を形作っていた水分子は全て排水口から流れ去り,今の「渦」をは新たに周囲から流れ込んだ水分子によって形作られている.「渦」とは水が流れ続けることによって形成される「秩序」であり,周囲から水が流れ込み,かつ下端の一転から水が流れ出し続ける限り,存在し続ける.流入と流出.このどちらか一方でも停止すれば,渦も消える.生命もまた,そのようなものだ.

僕は食べる.食べたものは糖やアミノ酸に分解・吸収され,僕の血や肉や骨になる.だが,一旦作られた身体は,古くなったものから次々壊されていく.個々の細胞を取り巻く細胞膜や,核酸に至るまで,生まれてから死ぬまで同一の物質のままあり続けるものは一切ない.骨でさえ,作られた端から壊されていく.僕の中には「ドリル細胞」と呼ばれる細胞があって,今この瞬間も僕の骨にトンネルを掘り続けている.ドリル細胞が開けた穴は,新たに形成された骨組織によって埋められることもあれば,血管の通り道となることもある.そのような「流れ」によって,僕の身体を構成している物質は数ヶ月でほとんど入れ替わる.一年もすれば,物質的には全く別のものとなってしまうわけだ.一年前の僕は,今の僕とは物質的にはまるで別の物体なのだ.だが,そのように物質が流れ続けている限りにおいて,僕は,僕として在り続けることが出来る.

排水口に出来た渦をよく見ていると,その形は決して一定ではない.渦に流れ込む瞬間の水分子のランダムな動きをを反映して,微妙に揺らぐ.僕もまた,周囲の環境を反映して日々揺らいでいる.一日として同じ僕は存在しない.そして何より間違いなく,日々,確実に,老いている.

僕には僕の身体がある.僕の手があり,僕の足がある.そして「皮膚」という境界線を境にして,「僕」と僕の外側の「環境」とが,隔てられていると思っている.でも「僕」と外部の「環境」という分け方は,本当に妥当なものなのだろうか.


・・・つづく