読破

科学と方法―改訳 (岩波文庫 青 902-2)

科学と方法―改訳 (岩波文庫 青 902-2)

数学的発見における無意識の関与,と題して著者が数学の歴史的発見を振り返った部分が非常に印象深い.

ポアンカレは,自分でフックス関数と名付けたものをいじくっていた.この関数に類似なものはないことを証明しようとしていたが,いくらやっても証明の糸口がない.だいたいの予見はあるのに証明に進めない.ミルクを入れないコーヒーばかり飲む日が15日ほど続いて,ある夜,超幾何級数から誘導されるフックス関数の一部類の存在を証明すればいいのだと気がついた.そこでデータフックス級数というものを"創造"してみた.
 けれどもそれをどう動かすかというところで、多忙に紛れはじめた.アタマの中からも数学的課題が消えていた.それなのに旅先で乗合馬車に乗ろうとしてステップに足をかけた瞬間,フックス関数を定義するために用いた変換は非ユークリッド幾何学の変換とまったく同じであるという,推理のプロセスに何の保証もない考えが浮かんだのだ.馬車の中に入ると乗り合い客と別の会話がはずんで,そのことを考えてみる余裕はなかった.
 しばらくたって,これらのことを振り返る機会がやってきた.ポアンカレは猛然とすべての難関を攻略するための作業にとりかかる.あやしい問題を次々に片付け,あと一つの難関を攻め落としすればすべてが解決というところにさしかかったとき,今度はまったく予期せぬ座礁にのりあげた.その直後にポアンカレは兵役に従事せざるをえなくなり,ここで再びアタマの中からこの問題は去ってしまった。
 それがある日,大通りを横断しているときに全てが蘇り,最後の困難を突破する解法が閃いたのだった.
 ポアンカレは書いている.

突如として啓示を受けることはある.しかしそれは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示していることなのだ

ポアンカレはこのことを「数学的発見における精神活動の関与」と呼んだ.
ある問題に一定期間以上,自身の全集中力を投入して取り組んだあとは,たとえ意識的にはその問題を忘れていても,無意識はその問題を考え続けている.そして無意識において,その問題を解き明かす切り口が様々な可能性から試されるわけだが,そのほとんどは重要でないために意識に上ってこない.ちょうど,毎日見ている何の変哲もない風景が,僕の注意を引かないように.
しかし,日常の風景の中にある日突然特異なものが現れたら,それは僕の注意を引き,そこに意識を向けさせる.問題に対する解答も同じだ.無意識が提示する幾つもの可能性の中で,重要な意味を持ちそうなものだけが意識に捕捉される.だが,無意識にその問題についての思考を続けさせるには,一定期間以上,意識的にその問題に全力で取り組むことが最低限必要な条件なのだ.

精神分析は「無意識⇒意識」への影響ばかり取り上げるが,その逆の方が遥かに大切だ.「意識⇒無意識」というスタートラインがなけれれば,「インスピレーション」など絶対に現れ得ないのだ.