お前はアメリカ的だと

よく言われる.そう言われること自体に不満があるというわけではないが,物足りないなあと思うことも確かだ.少なくとも彼らは,仏教も神道も,侘びや寂びや和歌や日本語についても詳しいことはほとんど知らないことが多い.そんな彼らが僕を指して「日本的ではない」と言うとき,僕は一瞬ポカンとしてしまう.
彼らが「日本的」という言葉で何を意味しようとしているかと言えば,単に「彼らの常識」ということでしかない.僕は確かに開けっ広げで,不合理なことは不合理だとはっきり言うタイプだ.敬語もあまり好きじゃなくて,後輩にもタメ口を聞かせたりする.細かいことに大してはかなりテキトーな性格だ.しかし,そういうところをアメリカ的と呼ぶのはいかがなものだろう.織田信長は多くの古い体質を破壊したが,彼は代表的な「日本のリーダー」ということになっている.僕の弟は上記のような僕の性格に更に輪をかけたような男だが,彼が人から「アメリカ的な男だ」と評されることはない.彼はアメリカに行ったことがないからだ.
要するに,僕を「アメリカ的」と言う人は,自分の常識と違った言動パターンを示す僕に対して,違っている理由をただ「僕がアメリカに行ったことがある」という点に帰しているだけだ.

正直に告白すれば,僕は開放的な人間になることを,弟から学んだのだ.にも拘わらず,4年前にアメリカと関わるようになった途端に僕は「アメリカ的な人間」と呼ばれるようになってしまった.そういうものだろう,という気はするが,やっぱり物足りないのだ.

そんな僕だが,「君はアメリカ的と見せかけて実に日本的な男だ」と言われることもある.そう言ってくれる人は大抵,多くの本を読んでいて,学識も深い.そういう人から日本的だと評されるとき,僕は素直に嬉しいと思う.