五山

毎年送り火の日に,前の研究室では飲み会を開いていた.確かに農学部の新棟からは,大文字と妙法がよく見えた.
でも,いつも思う.あの火を,酒を飲んで騒ぎ,あっちの方がよく見えるぞ,いや,こっちだと言ってはゲラゲラ笑う,そんなネタにすることに,僕は抵抗があって,点火されてからは,皆から離れて眺めていた.

起源は,平安時代とも江戸時代とも言われる.いずれにせよ,何百年も続いているものだ.それも,京都を囲む5つの山(一時期は十山だったらしいが)で同時に行われる,一大スペクタクルだ.今の時代,もっと派手で大規模なスペクタクルは幾らでも存在するかも知れない.だが,数百年後も変わらず続いているであろうものは,どこにも見当たらない.そのような想像力を,僕らは持ち合わせていないのだ.

送り火は,文字通り「送る火」だ.8月14日に帰ってきた死者の魂を,再び死者の世界に送り返す道しるべとしての,灯火.僕は魂の存在を信じているわけではない.だが,今日もこうして代わらず大の字に火が灯るのは,そういう宗教的な力…と言って悪ければ,信じるということが生み出した,時代をも超える力なのだ.

1人,炎を眺めながら僕はいつも思う.魂は信じていなくとも,「送り火」という存在そのものが,僕に死者を思わせる.父のこと.友のこと.それだけでなく,本当に魂が存在すると信じていた時代の人々は,この灯に,何を思っただろうか.

火は,ゆっくりと消えていく.火が燃え尽きたとき,それは,死者の魂が完全に旅立ってしまったことを意味しただろう.それは人々に何を感じさせただろうか.世の無常を思っただろうか.死を身近に感じたのだろうか.

僕は魂の存在を信じてはいない.だがそのような想像をすることは,決して無意味ではないはずだ.