信じる,ということについて

この間ふと思い出したんだが,前にアメリカに居たとき,ルームメイトのアラビア系イスラエル人カリール(昔からの読者は憶えておいでだろうか)と,ウクライナ人のユウリが神について議論をしていた.イスラムvsキリストって図式ではなく,神を信じる者と,科学的無神論者との争いである.

ユウリは言う.何故君らは神がいると思うのか?
カリールは言う.理由はない.神はいるのだ.
そんなに存在すると言うのなら,証拠を見せてみろ.
証拠などない.ただ信じるのだ.

別に,ここで神の存在についてどうこう言うつもりなのではない.ただ何となく,絶対的な証拠や保証がなければ信用しない,というのは理知的というよりは臆病なのではないか,という思いがふと浮かんできたのだ.なぜなら,「信じる」という行為を可能にするのは,当に絶対的な証拠など存在しない場合に限るからである.これは逆説的に聞こえるかも知れないが,もしも神の存在に関する客観的な証拠が出てきたとすれば,神はもはや信じる対象ではなく,単に「知っている事実」に成り下がってしまう.

人を信じる,ということにも似たところがあるのではないだろうか.誰かが本当に自分の味方なのかどうか,それを100%知ることは出来ない.だが100%でないからこそ,もしかしたら相手が助けてくれないかも知れないという可能性が消えないからこそ,実際に助けてくれたときに感謝することが出来る.もし,相手が絶対に自分を助けることを最初から「知って」いたならば,そこに有難いという気持ちが生まれる余地はない.逆に,困ったときには絶対に助けてくれるという保証がなければその人のことを信じない,なんてこと言ってたら,孤独の中に一生を送ってしまうだろう.

流石に,僕は神を信じることが出来ない.だが,人を信じることなら,出来るんじゃないか.