その81〜実力を100%発揮する〜

金曜のボスとのミーティングは,共同研究者のFengと共に臨んだのであったが,フェンの中に科学者にありがちな一面を見て少し考え込んでしまった.

それは合理性を余りにも重視する傾向である.


今回のプロジェクトはフェンのアイデアが基本にある.しかし彼は,3年前にポスドクとしてここにやって来て以来,ずっとボスを説得できずにいた.熱意が足りないのではない.彼が本当にこのプロジェクトをやりたくて仕方がなかったということは間違いない.だが,彼の頭には「どうすればボスを説得できるか」という問いが浮かんだことがなかったように思われるのだ.

フェンは優秀だ.北京大学とならんで中国のトップ2を争う大学(名前忘れた)を出て,アメリカでPhDを取っている.だが優秀すぎる人間の性なのか,説明するのはヘタクソだ.彼が人に向かって僕らの研究プロジェクトについて話すとき,僕が内心「えっ.いきなりそんなとこから話したって通じないんじゃ?」と感じ,そして実際に相手がポカンとしている事態を目にしたのは一度や二度ではない.まあそれでも多くの場合は,しばらく我慢して聞いてくれるから,分かってもらえる.

だが,ボスはそうではない.

金を出すのはボスだ.そして上手くいきそうにない研究に対して,金を出すわけにはいかない.ボスの頭脳は恐るべきスピードで回転し,懸念される問題点を次々に聞いてくる.無論,ボスはこの計画を一緒に考えた人間ではないのだから,ボスの懸念は殆どが「杞憂」である.だから僕らの義務は,そのボスの頭に浮かぶ「不安」に対して一つ一つ丁寧に答え,安心させることだと言ってもいい.当然,ボスの迫力にうろたえてしまったが最後,ボスはイライラしてあっさり結論付けてしまう.「これくらいの問題点について考えられもしないクセに,どうしてそんな計画を承認しろって言うのよっ」と.

彼にはそれが分からない.彼は,ボスが挙げる問題点なんて考えれば間違ってることくらい分かるじゃないか,と本気で思っている.合理性こそが全てだとどこかで信じてしまっている彼は,ボスの批判的な対応を不合理であるとしか捉えられない.そしてそんな不合理に対してどう対処していいのか分からず,立ち往生してしまう.説得できないのは当たり前である.

確かに研究対象に向かって計画を練り,実験しているときは,合理性こそが全てだ.そこに不合理や非合理が介入してくる余地はない.だが,ボスとの話し合いや学会でのプレゼンテーションとなると,話は変わってくる.それは飽くまでも人間を対象にしたコミュニケーションであり,そこでは合理性以外のファクターが重要になってくるのだ.

ボスとのミーティングのあと,フェンは僕に言ってきた.
「彼女が言ってきた問題点は重要じゃない.なぜなら・・・」
それは僕にじゃなくてボスに言うことだろう,と思わず口走りそうになったが,止めた.少なくともGOサインを貰えた以上,共同研究者である彼の機嫌を損ねるようなことを言っても何の得もないのだ.

ふと,人の幸福は能力の高さよりも,持って生まれた能力をどれくらい発揮できているのかに依存しているのだと思った.仮に僕の研究者としての能力が10で,フェンが20だったとしよう.僕は今まで自分の実力を100%発揮してきたので何の不満もない.だが今のフェンは20のうち12くらいしか発揮できていないだろう.今の状態でも,研究者としてのパフォーマンスは彼の方が上であるとしても,彼は未だ発揮できずにいる実力が8もあるために,多くの葛藤を抱え込むハメになっている.

そう考えると,僕の方が圧倒的に幸福な人間だと言うことが出来るだろう.多くの本を読み,思考の幅を広げてきたことは思わぬところで役に立っていたのである.