変わらない生活,使い切れないお金.

先日人生で最初の給料を手にした僕であるが,実は給料を手にしたという事実に少々違和感を感じてしまった.なぜなら,前回学生としてジョージアに来ていたのと同じ場所で,同じことをしているからである.

院生時代はもちろん給料など発生しない.だが,単に僕は実験室で只管手を動かし,データを量産することに全力を挙げてきた.「お金を貰っている以上責任が違ってくる」とか言ったって,これまでが既に限界レベルだったのだ.これ以上努力のしようがない.僕はただ好きなことを好きなだけやっているだけだ.それが突然,一人じゃ使い切れないほどの現金が舞い込んできたんである(僕は物欲が恐ろしく薄いので余計だ).正直に言ってわけがわからない.同じことをやっているのに,それに対して支払われる対価が全然違うのだから.

同時に,この道を選んだのはやはり正解だったと思った.

大学3年の半ば,周囲が就職活動に勤しみ始めた頃,僕は大学院に本当に行くべきなのかどうか少し考えたことがある.普通に就職すれば年間で250万くらいは入ってくるのである.大学院で5年を過ごすことは,その年収の五年分,250万×5=1250万の収入を機会コストとして失うことになる.さらに学費が毎年50万なら,プラス250万.つまり大学院で5年を掛けて博士号を獲得するには合計で1500万円のコストが掛かることになるのだ.果たして本当に,研究者として生きることに,それほどの価値があるのか?

それでもとりあえず大学院に行くことにした.研究が面白いのか面白くないのか,それはやってみなければ絶対にわからない.面白くなければ,出来るだけ早く辞めてしまえばいいことだ.2年で,修士号だけに留めるならば,失うコストは600万で済む.

杞憂だった.研究は面白かった.

そして,今,僕は好きなことをやって稼ぐという,得難い幸福を手にした.「楽をして稼ぐ」というのも幸福なのかも知れないが,僕はそんなものには興味がない.ストレスの中で労働することにはもっと興味がない.

仕事は掴んだ.女も見付けた.あとは両方をしっかりと,離さないことだ.ain_edが今日の日記に書いてくれたように,

二兎を追う者は一兎も得ない、かもしれないが、二兎を追わなければ二兎得ない状況ならば、追ってこその人生だ

更にヤツは続ける.

「自分の好きなことを続けるために、犠牲にしたものがあります」より、「自分の好きなものは全て手に入れました。幸せです」と言いたい

時々,「人間の価値は,その人が背負っている責任の重さで決まる」なんて言葉を耳にする.僕や彼にとっては,そんなものはクソ食らえだ.