再掲:理性の役割.

慎み深く自分を抑え,誘惑を排し,善を施す.克己の精神に満ち溢れた人物を「理性的」と思っている人は多い.だがそれは,正しくは「倫理的」な人物だ.倫理的な行為にも確かに理性は介在しているが,そのような行動の原因は理性そのものではない.倫理的行動を支配するのは,自分が所属する共同体から除け者にされはしないかという恐怖心,あるいは他人の尊敬を買いたいという自尊心である.つまりは欲望の一種である.理性は自分本位の衝動(食欲・性欲etc)と,社会的な衝動(名誉心,羞恥心,etc...)とを調整しているに過ぎない.

ラッセルは言う

「理性」の完全に明白で正確な役割は、われわれが達成したいと思う目的に対して正しい手段を選ばせることにある。

また,イギリスの経験主義者ヒュームも,次の有名な言葉を遺している.

理性は情熱の奴隷であり、またそこにとどまるべきである

要するに行動の原動力となるのは,あくまでも欲望や情熱なのだ.理性の役割はそれらを調整することであり.だから「理性⇔感情」という対立図式は間違ったものである.

ラッセルはこうも言う.

理性は、創造的な力というよりも調和・統制する力である。理性は、我々の諸信念が相互に両立しうるかどうかを検討し、疑わしい場合にいずれかの側に有り得る誤りの源を確かめる調和的媒介者である。この場合、理性は本能全体に全く対立せず、ただ、ある物事に関して本能が関心を抱く一側面のみを盲目的に信頼したり、他の諸側面を無視したりすることに対立するのである。理性が誤りを正そうとする力は、本能の持つ一面性に対して向けられるものであり、本能それ自体に向けられるのではない。

例えばある人が逆上し,腹立ちまぎれに自分に損な事をすれば,その人は不合理だと言われる.その人はただ一時の感情のために,遙かに重要な他の欲望を犠牲にしているため,不合理なのだ.理性的な考え方とは,偶然その瞬間に最も強い欲望にのみ左右されるのではなく,「自分が持つすべての欲望を思い出す習慣」のことだと考えてよいだろう.

今日は約3年前に書いたこの日記を,ある人のためにもう一度載せることにした.読んで頂ければ,幸いである.