権威と信用

昨日考えてて分からなくなってしまったのは,相手の言葉の背景にあるのが権威であるにせよ信用であるにせよ,最終的には「相手の言葉を『信用』する」ことに変わりはないということに気付いていなかったためであった.情けない.

エジソンの言葉は「発明王エジソンという権威の故に説得力を持つわけだが,僕は幾つかのエピソードがエジソンの傲慢で嫉妬深い性格を伝えていることを知っていたために,エジソンを信用しなかったわけだ.だから一般的な「努力が大事」という解釈を疑い,調べてみたら案の定,id:KEN_NAITO:20071003のようなエピソードが出てきたわけである.

僕にとって権威と信用の間の線引きが難しく感じられたのは,どちらが相手の背景にあったにせよ,それらは最終的な「相手の言葉を信じる」という行為の客観的或いは論理的根拠にはならないからである.相手が社会的に功成り名を遂げた人であれ,正直者で評判の人物であれ,あるいは親友や恋人であっても,その言葉が本当に真実を語っているのかどうかは保証されていないのだ.だから「相手の言葉を信じる」という行為には,確率的な推論以上の根拠はあり得ない.

話が逸れた.それでだ.一昨日の日記を見直していて一つ重要な点に気付いたのだが,相手の言葉の背景に権威がある場合は,基本的に自分が相手のことを信じなくても,相手は困らないということだ.そう,僕がエジソンの言葉を信用しなかったからといって,エジソンは痛くも痒くもない.一方,信用はと言えば,その言葉を信じてもらえなかったら少なからず打撃を被る場合に必要なものだ.って言葉にしてしまうと当たり前過ぎて拍子抜けするくらいだが.

と,今日はこんなもん.続きはあるかも知れないし,ないかも知れない.