優しくなる,ということ

それで,優しさって何?という話を彼女としていたんだが,一言で言うならば,大乗仏教の「自利利他」の精神ということになるんだろうと思う.優しさは,それを与えることが相手のためになるだけではなく,自分のためにもなっているものだと思う.だから我慢したり,自分を犠牲にして相手のために尽くしたりするのは,絶対に優しさなどではない.犠牲によって相手を「一時的に」喜ばせたり,機嫌を損ねる事態を避けることは出来るかも知れないが,自分の心からはそれだけ余裕がなくなっていくことになる.それに相手の方は実際には単に「甘やかされて」いるだけで,全然ためになっていない.優しさとは,恐らく,それを与えてもらった人の心に余裕を生み出すものではないだろうか.相手の心に余裕が生まれると,自分の心にも余裕が出来る.だから「自利利他」なのだ.
もっとも,優しくなるためには,まずは自分の心に余裕を保っておかなければ始まらない.そして自分の心に余裕を作るには,自分で自分にあれやこれやを「禁止」しないことが必要なのだ.心に禁止が存在していると,何かあると無意識に自分も他人も責めてしまう.それを意識的に抑え込んで他人に優しく接しようなんて,そもそも人間業じゃないだろう.
結局,「優しさ」にはマニュアルなんてないのだ.自己犠牲は優しさではあり得ないし,社会常識や道徳的な規範に従って行動しても,それが本当に自分や相手を幸せにしてくれるとは限らない.時にはそういう規範から外れることが大切なこともある.自分の状況や相手の事情を本当に顧みた上でなければ,相手のためになることはおろか,自分のためになることも分からない.だから,「余裕」は大切なのだ.